2010年3月20日土曜日

ある質問(2)

AとBはどちらも事実であるという点では 全く違いはないのですが、
その二つの事実は「等級(とうきゅう)的には」大きな相違があります。
(このことは 以前にも書いたようです)すなわち
Aはとても優(すぐ)れた事実であるのに反し、Bは劣(おと)った事実です。

「私達がすでに罪に対して死んだ」というのはきわめて優位(ゆうい)な
事実ですが、キリスト者の生活においてさえも「不品行、汚れ、情欲、
悪い欲、むさぼり」が生きている、という明らかな事実Bは、
しかしながら、「劣った事実」です。

しかし その事実が劣性(れっせい)の事実であるから いい加減(かげん)
でよろしいと言うことは絶対にありません。むしろキリスト者は B現象が
もともと はかなく劣った事実であることを、情欲をいとも簡単に殺すこと
によって身をもって証明しなければならないのです。すなわち私達は 
Aの事実がBの事実に対して 圧倒的に優位である証明をするのです。
そこにこそ今 キリスト者が地上におかれている一つの大きな意義がある
と言えるでしょう。

その目的のために何と 事実Bは 敢(あ)えて神によって今現在 
取っておかれている、と言えるのです。なぜ、事実Bがあるのか、
それは Aの事実の優位性(ゆういせい)を かつては罪深かった
キリスト者が自分の「汚れを容易(ようい)に殺す」ことによって証明し、
「私は罪に対して死んだ」という事実Aを クリアに引き立たせるためです。
(これは以前書いた「コントラスト」の意味です)それは 神の敵を 私達
乳飲み子のような弱い者を用いて はずかしめる という 
今の時代における神のとても大切な目的でもあるのです。

その結果 わき上がる私達の賛美は 敵を静め
神のとりでさえも建設することになるでしょう。(詩篇8の2、原文)


この話題に関連して 他にいくつかの大切な真理が
言及(げんきゅう)されなければならないと思っております。

1 件のコメント:

陽子 さんのコメント...

続きを楽しみに待ちます
山でのお祈りは
あのやまびこで帰って来るのでしょう
神様のみ声がーー
これから若葉の山は
又素晴らしいのでしょうね
それでは又