2010年3月16日火曜日

ある質問(1)

パウロはコロサイ3の5で、
「地上のからだの諸部分、すなわち 不品行、汚れ、情欲、悪い欲、
そしてむさぼりを殺してしまいなさい。」と言っています。
キリスト者は そのような「罪に対して死んだ」(ローマ6の2等)
はずなのになぜ また殺す必要があるのですか?

私の答え:
「私達が死んだ」と言う事実は 
①「永遠において」また
②「キリストの中において」です。

これを簡単に「霊的に死んだ」のであり、肉体的には
生きているのだ と説明しても間違いとは言えません。
ただそれだけでは 多くの人は「分かったようで
分からないなー」という感想を抱(いだ)くことでしょう。

いずれにしろ 神にとっては
「万物の死」は確定的絶対的な事実(真理)です。
これを仮にAとします。

しかし、今私達が存在するこの時空の中においては
「私達は死んだ」ようには見えません。私達は明らかに生きています。
これも確かに事実です。これをBとします。

今、私達の目の前に「神のことば」と「目に見える明らかな状況」
という完全に対立する二つが置かれています。
このAとBは正に真逆(まぎゃく)の光景です。
この矛盾(むじゅん)?を私達はどう解決すればよいのでしょうか。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

イエスキリストの中に
居るならばその疑問は
消えるのではないかと
思いますが

Mr.Sugar さんのコメント...

確かに。

in Christ
の実際があれば、
キリストの総てがその人に伝達される
わけですから、
その人は「Bの事実」を超越し
Aの現実の中に生きることが
出来る筈です。