2010年1月21日木曜日

神に勝つ人生と神に負ける人生

多くの場合 
私たちキリスト者は 神に打ち勝つ人生を送ります。
神はしかし、私達に抵抗し、私達の極めて深いところで 
私達に語りかけておられない、のではないのです。

所がこの時代、
私達の人格やプライドを ことのほか尊重される神は
私の小さな議論にたやすく打ち負かされるように見えます。 
偉大な神が 私の小さな「へ理屈」にさえ屈服させられるかのようです。

ですから、今の時代、私たちが「神との勝負」に勝つのは
そんなに難しいことではありません。
そのようにして、神は「一旦」私から退かれるのです。
これがキリスト者が神に勝つ人生です。

ところで、
私たちにとって 神への敗北は簡単ではありません。
何故でしょう。何故なら 私が神に打ち負かされることは即ち 
私が「人々の前に」極めて「具体的な」敗北と惨めさを露呈することに
なるからです。それはまるで人々のみならず 全宇宙が私の失敗と
「駄目さかげん」を あざ笑うかのようです。

しかし私はこのたび、
二人の神に打ち負かされた人を見ることが出来ました。
その中の一人は あのナザレのイエスです。
彼はある時に至り「急転直下」彼に期待をかけていた彼の弟子、また
母や弟妹達、また故郷ナザレの人達にとって 
何の達成もない 惨めこの上ない人生の失敗者となりました。

そしてまたその時 
ユダヤ人、ローマ人、ギリシャ人(即ち全人類)は何の理由もなく 
彼を憎みました。また神によってさえ 彼の恥は全宇宙に
さらされたのです。私たちが聖画に見る彼の「腰の布」さえも
或いは 無かったのかも知れません。

しかし今日、
神が私たちの内側に かすかに聞こえる御声で常に語られることは 
私たちがただ このイエスの足跡に踏み従うことです。
今この時代の時間の中で 人々の怒号とあざけりの狭き道を 
イエスと同じ 恥辱の十字架を背負って 
一歩一歩進み行く決心をすることです。そうすれば 
間もなく「人々が」私を十字架に付ける結果となるでしょう。

完全な自由意志が 神によって私たちに許されているこの時代、
自ら進んで「神の細き声」に打ち負かされること
これこそが 人がサタンに打ち勝つ唯一の方法です。

「彼はさげすまれ、のけ者にされた・・
神は、私達の総ての咎を彼に負わせた」
(イザヤ53章)
 

2 件のコメント:

T.O さんのコメント...

今日もブログを感謝します。
読んでいて(ガラ6:14)「この十字架によって、世界は私に対して十字架に付けられ、私も世界に対して十字架に付けられたのです。」というみことばを思い出しまた。
昨日今日と横浜は暖かいですがそちらは如何ですか?主が私たちのうちにいてくださる恵みを共に感謝しつつ

Mr.Sugar さんのコメント...

T.O.さん 感謝です。
こちらも 随分 暖かいですよ。
今朝 小屋の前の小さな道に残っていた
雪も、今見るとすっかり無くなって
しまいました。あす下山します。