2009年10月19日月曜日

獄中のウオッチマン ニー(5)

その後、彼女は面会に訪れた時、自分の置かれている境遇を、
一部始終、私に話して聞かせました。
私はそれを聞いて大きな怒りを覚えたのです。
そんな滅茶苦茶な話があるでしょうか。
無実の私に 反革命の罪を着せたただけでは飽き足らず、
彼らは私の妻と娘まで見逃さないのです。
妻は言いました「私は今日、自分の腕時計を売ってから、ここに来たの。
でもこれから、どうやって やりくりすればいいのか、もう分からない。」

兄弟姉妹の皆さん、私は殺人も放火もしていません、盗みも、強奪も、
爆破工作もしてないのです。私は国民党でもなければ、スパイでもなく、
地主でもないのです。何も悪いこともしていないのに、私がどんな
反革命分子だと言うのでしょう。
私は反動的なスローガンを一枚も貼ったことはありません、
反動的なアジビラを一枚も配ったこともありません。
なのに、どうして私が「反」革命だというのでしょうか?
総てが納得のできないことです。

けれども 私にはどうすることもできません。
妻は泣きじゃくっていましたが、私は一滴の涙もこぼしませんでした。
私は幼い頃から赤旗の下で成長して来ました。共産党は、敵の前で
涙を見せないようにと私を教育して来たからです。
だから今日も、一滴の涙も彼らには見せられません。
しかし私はそもそも、彼らの敵ではなかったのです。むしろ
私は彼らを支援して来たのです。人民解放軍が政権を握った時、
私はわずか12歳でしたが、私は解放軍を祝して、
「大輪の真紅の花束」を贈りさえしたのです。
それなのに彼らは 私を一方的に敵とみなしました。
この「敵」とは 彼らが勝手に作り出したものに過ぎないのです。

面会の5分間は またたく間に終わりました。妻は娘を抱いて私から
去ろうとしています。そして私は去り行く彼女の後姿を見つめながら、
全くなすすべもなく立ち尽くすばかりでした。彼女が私から 
離婚しない保障はないのです。その時です 突然、
妻は私に振り向いて 大声で叫んだのです。
「身体に気をつけてねっ!」

その叫び声は、いつまでも私の耳に残り、今でさえ私の心臓は
張り裂けそうです。しかし私にできることはありません。走って、
外に飛び出すことは不可能です、機関銃を持ち出し、彼らと闘う
こともできません。ただ黙って、この責め苦を耐え忍ぶこと、
それが私にできる総てでした。


看守に背中を押されて、私は監房に戻りました。
その時に至り 私はもう涙をこらえることができません。
監房には机も椅子も寝台もありません。
壁にすがって 私はただ泣いたのです。

するとその時 誰かが私の手を握りました。それが、
あのうっとうしいニーであることが分かりました。
腹が立ちました。彼は私にとって最も嫌悪すべき人物だったのです。
彼は私の手を握って何をしようというのでしょう? 
彼とは口も利きたくありません。私は彼の同情などほしくは
なかったのです。だからその時 実は 私は彼の手を振り払おうと
したのです。私はボクサーで、当時まだ若かったのに対し、彼は
年老いており、その上心臓病を患っていました。私がただちょっと彼を
振り払いさえすれば、彼は鉄の扉まで吹っ飛んで行ったことでしょう。

ところが兄弟姉妹、その時とても奇妙なことが起こったのです。
これは一つの奇跡でした。私がそうしようと思っても、どうしてなのか、
ニーの手を押しのけようとする私の手が上がらないのです。ニー兄弟の
力は弱いのに、少なくとも私は 3回も手を持ち上げようとしたのに、
それでも私は 自分の手を持ち上げることができなかったのです。

その時私は、ニー兄弟が私の耳のそばで こう言うのを聞いたのです。
「友琦さん、泣きなさい、泣いた方がいいです。
そうすれば気持ちが晴れるから。」
その彼の言葉は 私の心を打ちました。
監獄には規則があり、それによれば、声に出して泣くことは規則違反
でした。なにしろ、囚人全員はいつでも悲しみに暮れていたのです。
一人が泣き出せば、誰も彼も泣き出し、監獄全体が泣いてしまって収拾が
つかなくなったでしょう。それは 再教育に良くない、というわけです。

だから、私はニーがきっとこう言うだろうと想像していたのです。
「泣いてはいけません。泣くのは間違いです。私達は再教育に従って、
正しく振舞わなければなりません。」
彼は小組長であり、政府の側に立たなければならない人間です。
なのに、彼は今 声に出して泣きなさい、と私に勧めたのです。
これは全く 私が考えもしないことでした。
このことを通して、彼に対する私の見方は変わったのです。

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