すっくと立つ一本の美しい樹木を前にすると、
その中の一枝のみを見るのは難しい。
それを試みるとしても、
一瞬、樹木全体の強烈な美しさが
一枝の存在をかき消す。
たとえ仮に
人が樹木の一枝を凝視するとしても、
その直後、人は直ちにその枝をも
樹木全体として認識してしまうだろう。
樹木がブドウの樹であれば尚更のこと、
即ちブドウ枝枝が即ちブドウの樹なのだ。
枝が樹木から切り離されることがもしあるならば、
枝はその時こそ 初めて一本の枝となり得るが、
いずれ必ず枯れて焼かれる。
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キリストはブドウ樹全体であり、
ブドウの樹の幹だけではありません。
1 件のコメント:
ヨハネ福 15:5 わたしはぶどうの「木」、あなたがたはその「枝」である。
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