神がサウロに触れに行かれた もう一つの目的に注目する時、
サウロのケースは ある意味 ある範囲において あのイサクの子
ヤコブの場合と似ていることが分かります。
ヤコブの場合
彼の生来の賢さ、計算高さ、強さがエスカレートするその頂点において
即ち ヤコブの人生の闘争、その「くみうち」の頂点において 神は
ヤコブの現場に現れられ、ヤコブの魂の 最大の力が結集するポイント、
即ち 彼のもものつがいに触れたのです。
彼の長年のくみうちは実の所 決して「人と」ではなく
「神とのくみうち」でした。これまで多くの場合、私達も実は 神に
対して自分の主張を通すばかりであり、何と私達も 神をも打ち負かし
続けて来たのです。(私達こそ本当のヤコブです!)
従って仮に もしもある人の経歴に ヤコブやパウロのように
真に「神に負ける」経歴、即ち神に触れられ、倒され、歩行困難となり、
視力を失い、「障害者」とされる経歴が全くないとするならば それは
キリスト者として極めて残念なことではないでしょうか。何故なら、
彼は「自分のものと思っている」人生において自力で 思い通り自由に
どこにでも歩いて行けるからです。それは何という不幸でしょう!
しかしながら私達もある時 神によって損傷され、その損傷によって
与えられた 不思議なある「不自由さ」をそれ以後 常に自覚せざるを
得ない「障害者」とされる必要があるのです。そのようにして私達も
神の憐れみを得て サウロからパウロに、自分のエネルギーに満ち満ちた
ヤコブから、杖なしでは一歩も歩くことが出来ないイスラエル(神と共に
支配するの意)へと変えられる あの「暗くされた真昼や夜」を
必ず必要とするのです。
(その彼が遂に神に負けた夜、即ち彼が本当に
弱くされた夜、彼のその最大の弱さの中で 何と神は彼によって掴まれた
のです。からしだねの様なかすかな信仰が かえって神を掴んだのです。
従って、とても不思議なことなのですが、正にその夜こそ、彼にとって
「真の勝利」を得る時となった と言うことが出来るのでは
ないでしょうか。創世記32の23~31)
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