*感覚の生活(9)
このような経験の中に入る時、多くのキリスト者は霊的に前進することなく、
後退します。彼らは心ならずも、そのような悲しむべき状態に落ち込んで
しまうのです。そのようなとき、彼らは自分の本分をさえ 軽んじ勝ち
ですが、その理由は そこには素晴らしい感覚がなく、冷淡な感覚しか
ないからです。この時期、このように彼らは総てにおいて
「自分の感覚」の支配と影響を受けてしまいます。
以前、彼らの行いが変えられたのは感覚の中ででした。所が今それより
ずうっと前の状態に戻ってしまいました。彼らの感覚が素晴らしいとき、
自分のように振舞わない人達を見て 気の毒に感じたのでしたが 今は
彼らと何も異なりません。彼は今、はるか以前と同じように、おしゃべりで、
軽薄で、遊ぶのが好きです。彼らは一度変化を経験したのですが、既に
それは過去のものとなってしまいました。
*
信者が幸いな感覚を失う時、彼は総てを失ったと思います。彼らは主の臨在
を感じないと、主は一緒におられないと思うのです。主の暖かさを感じること
が出来ないと、主はきっと自分を喜んでおられないのだ と思います。
(事実はそうでないのに)
やがて彼は 神がどこにおられるのかさえ 分からなくなります。もし彼が
この時点で落胆しないならば、彼は失ったものを一心に回復しようとします。
しかし、その祈りは聞かれません。彼が主を愛し、主を身近に感じていたい
と切望しても、今彼には最早 主の愛の感覚がありません。
果たして彼はこのことに耐えることが出来るのでしょうか。
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今日これから、入院したケンのために下山します。
しかし21日にはまた 山に入ります。
この夏もまた、マルシア夫婦が 初めての赤ちゃんと一緒に
泊まりに来てくれるからです。
1 件のコメント:
『キリストの中にある私』と『私の中にあるキリスト』は、どちらも主体はキリストですが、前者は既に神によって成し遂げた事実です。一方後者は、過去とはなんら関係がなく、現在と未来に関係します。
キリストが私の中におられるのは、私に代わってキリストが私の内側で生きることです。
『私』がキリストの命の力をいただいて、『私』が生きるのではありません。
『キリスト』が私の命となって、『キリスト』が私の内側で生きてくださるのです。
私とキリストは一つです。聖書の中に出てくるある個所のSPRITは、聖霊を指すのか、それとも再生された私の霊を指すのかの区別がありません。なぜなら聖霊と私の霊は一つになっているからです。一つです。混ぜ合わされるのではありません。私とキリストは一つです。
『私ではなくキリスト』です。ですから生きているのは、『キリストの力をいただいた私』ではなく『キリスト』です。
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