2009年8月17日月曜日

その祈りが聞かれないだけでなく・・

*感覚の生活(9)

このような経験の中に入る時、多くのキリスト者は霊的に前進することなく、
後退します。彼らは心ならずも、そのような悲しむべき状態に落ち込んで
しまうのです。そのようなとき、彼らは自分の本分をさえ 軽んじ勝ち
ですが、その理由は そこには素晴らしい感覚がなく、冷淡な感覚しか
ないからです。この時期、このように彼らは総てにおいて
「自分の感覚」の支配と影響を受けてしまいます。

以前、彼らの行いが変えられたのは感覚の中ででした。所が今それより
ずうっと前の状態に戻ってしまいました。彼らの感覚が素晴らしいとき、
自分のように振舞わない人達を見て 気の毒に感じたのでしたが 今は
彼らと何も異なりません。彼は今、はるか以前と同じように、おしゃべりで、
軽薄で、遊ぶのが好きです。彼らは一度変化を経験したのですが、既に
それは過去のものとなってしまいました。


信者が幸いな感覚を失う時、彼は総てを失ったと思います。彼らは主の臨在
を感じないと、主は一緒におられないと思うのです。主の暖かさを感じること
が出来ないと、主はきっと自分を喜んでおられないのだ と思います。
(事実はそうでないのに)

やがて彼は 神がどこにおられるのかさえ 分からなくなります。もし彼が
この時点で落胆しないならば、彼は失ったものを一心に回復しようとします。
しかし、その祈りは聞かれません。彼が主を愛し、主を身近に感じていたい
と切望しても、今彼には最早 主の愛の感覚がありません。
果たして彼はこのことに耐えることが出来るのでしょうか。


今日これから、入院したケンのために下山します。
しかし21日にはまた 山に入ります。
この夏もまた、マルシア夫婦が 初めての赤ちゃんと一緒に
泊まりに来てくれるからです。

1 件のコメント:

千葉のM さんのコメント...

『キリストの中にある私』と『私の中にあるキリスト』は、どちらも主体はキリストですが、前者は既に神によって成し遂げた事実です。一方後者は、過去とはなんら関係がなく、現在と未来に関係します。
キリストが私の中におられるのは、私に代わってキリストが私の内側で生きることです。
『私』がキリストの命の力をいただいて、『私』が生きるのではありません。
『キリスト』が私の命となって、『キリスト』が私の内側で生きてくださるのです。
私とキリストは一つです。聖書の中に出てくるある個所のSPRITは、聖霊を指すのか、それとも再生された私の霊を指すのかの区別がありません。なぜなら聖霊と私の霊は一つになっているからです。一つです。混ぜ合わされるのではありません。私とキリストは一つです。
『私ではなくキリスト』です。ですから生きているのは、『キリストの力をいただいた私』ではなく『キリスト』です。