2009年7月16日木曜日

感覚の生活と本分(2)

信者はキリスト者の最高の生活が「人の本分」と矛盾するものでは
ないことを知るべきです。ローマ書、コロサイ書、エペソ書の後ろの方
を読むとき、キリスト者は「人の本分」を果たさなければならない
ことが分かります。

キリスト者のあるべき生活は、決して限られた場所と時間に限定される
ものではありません。それはいつでも、どこででも十分に表現される
べきです。従ってここだけは神にいてもらいたくない「私だけの場所や
また時間」などあるべきでありませんし、また神の前では比較的低劣な
時間帯などもある筈がありません。家事を行うことと、メッセージを
すること、祈ること、病床に伏していなければならないことの間に全く
何の優劣もないのです。キリストの命は、ありとあらゆる私達
キリスト者の生活を通して表現されなければなりません。

現在おかれている私の立場と状況に対する不満(この状況では 本分を
果たすことができないとする不満)は、実は私達が「感情の生活」を
している結果です。私達が反抗する理由は「私が願っている私の幸い」が、
この状況においては得られそうもないと思うからです。しかし本来、
キリスト者の生活は決して「自分の幸い」のためではありません。

それでは何故 私達は幸いを求めるのでしょうか。なぜなら、私達が
陥りがちな「私の感覚主導の生活」は、私に与えられた本分を重んじ
なくてもよいからです。しかし信仰の生活はそうではありません。
神に対する私達の愛は、私達の友人(周囲にいる人々)や敵に対して、
私の本分を捨てるように求める筈はありません。もし私達が
総ての事柄で、総ての時間、神と結合しているなら、あらゆる人に
対する私の本分が何であるのか、どのようにして彼らを助けるべきか
を知っている筈です。


Sugar 私見:
7/10の続きです。これは感情についての総論ではなく、
そのもとの1項目、「感覚の生活」の一部です。先回、うっかり
この部分の紹介を忘れてしまったのです。

2 件のコメント:

鷲のように翼を張って さんのコメント...

とてもスッキリしまし。パウロでしたっけ、「わたしは貧しくても、豊かでも、あらゆる状況に対処するすべを知っている」と言うようなことを言っていましたよね。八方ふさがりのようでも、主によって希望にあふれることは可能であると知っています。重荷はもう重くなく、主への感謝があるばかりです。世の人はそんな私を「天然」と思うかもしれません。天然、ハレルヤ!です。

Mr.Sugar さんのコメント...

天然ですか?私にはそうは見えませんが。


私はこれから、家庭での分を果たすために

芝刈りをします。外は暑いんですけどね。