2009年2月27日金曜日

「霊の人」と言う本

ある青年:
本は「見事に」本棚にありました。
その中で、第一巻 第二部の(3)十字架と聖霊、が
目に止まったので読んでみました。

はじめの私の思いは「あれ、俺は聖書と言うか、実際の歩み方
において相当な勘違いをしていたなあ」という示しとでも
言うのか、啓示とでも言うのか、とにかく「あれ、そうだったの」
てな感じでした。
ただもちろん総てを理解できたわけではありません。しかし少しずつ
今までの歩み方が是正されていくだろう、と言う感じを受けたのです。

何とこの本はその小項目一つ一つでも完結しています。これは
確かにこの本の一つの部分が全体であり全体が部分なので、
ゆっくりと読み続けて行く間に、聖霊が少しずつ真理を開いて
行ってくれるような気がしております。
それも当然、日常生活の中での経験とおり混ぜながらでしょう。
聖霊の導きに合わせて読んで行きたいと思っています。

また、第三巻の「思い」の項に私の長年の問題の答が
あったことは感謝です。

Sugar:
とてもアーメンです。
あなたがこの間言われた「この本の著者とゆったり対話する
積もりで、或いは一人の兄弟と交わりをし続ける積もりで
読んで見ます」と言う言葉は確かにその通りだと思います。
聖書を読む時も同じなのですが、この本を読破してやろうとか、
人に先んじて理解して人々に尊敬されようとか、
「霊的成長」を速やかに達成してしまおうとかと言う読み方は
むしろ敵の介入を招く原因になるでしょう。そのようにして
この本は 幾多のとんでもない誤解を受けて来たのです。

読書の目的とは:
「私達普通のキリスト者」が
「神の真理を真に見、経験し、実際的にこの時空の中に、
今は見えないキリスト御自身の現象を日常的に現し出すようになる」
こと以外にはあり得ない筈です。

2 件のコメント:

kurokkasu さんのコメント...

このブログに、とうとう「霊の人」が登場しましたね

ページ数が多いし、細かく分析しているので、私はまだ、ついてゆけないでいますが、「体」の部分はほとんどの人が理解できるのではないでしょうか。

とっかかれるところから入ってゆきます。

Mr.Sugar さんのコメント...

私もそういう読み方でいいのだ、と
思っております。

更に
「目的は日常生活に反映する」
と言うことから絶対に逸脱することなく、
これも日常生活の雰囲気の中で、
ごく少数の兄弟姉妹とともに
聖書を調べ、祈ったり、
ワイワイあーでもない、こーでもないと
質問し、質問されたりしつつ、
(お菓子などを食べながら)ノンビリと
読み進んで行ければ最高でしょう。

もしそれが実現すれば、私たちは何と
「キリスト者の集まりの本来の姿」を
垣間見ることさえ出来るでしょう。
それこそがコイノニヤ(交わり)である、
と思います。

その時、そのゴク小さなコイノニヤから
この時空に向かって流れ行く
目には見えない天来のものをキリスト者は
体感することが出来るでしょう。

アンテオケの小さな集まりに見る様に
それこそが「働き」の原点、「戦い」の
前線であると信じます。