2008年11月28日金曜日

霊 対 物質


人の物質への執着は
「自分の持ち物・財産→愛する者・家族等の体と命→
自分の体→自分の体の命」へとより重く深刻になります。

今この時代、物質世界を不法占拠している強大なこの世の大王に
私達が対抗する為には、神の敵が「私の命をも含む私に属する
これらのモノ」をどうしようと構わない、と言う彼に対する
「深い覚悟」がどうしても必要であるように思われます。

実は、昨日の午後から今朝にかけて、主はこの面で大いに
私を取り扱われました。それは私にとって、とても深刻で
貴重な時間であったと告白しなければなりません。

要はモノに対する霊の絶対的とも言える優位性を昨晩、僅かながら
経験することが出来たのです。人の命をたてに脅迫する神の敵の
悪巧みにキリスト者は決して屈するべきではありません。その
「覚悟」に至った時(それは全く主からでした)狼狽する私は初めて
深い安息を覚え、深い眠りへと導かれたのです。そして今朝に至り、
その問題は完全に無きがものの如くになっていたことを
知らされたのです。


キリスト者にとって
「私の本質は霊である」とする方が、聖書の様々な真理を
より無理なく説明できるように思われます。

新約聖書は明らかに「霊対肉」と言う図式を見せています。
しかし、それはそれとして「霊対物質」と言う図式も一つの
大きなテーマであることは明らかです。

物質は当然重要です。神もそれに対して一定の
価値を置いておられるからです。
しかし、神の真剣な目は「その向こう」をより注意深く
凝視していることは更に明らかです。

将来、物質は存在するのか、その応えは「しかり」です。
神は人に「復活のからだ」や新エルサレムと言う実体を
啓示しているからです。しかしそれは「霊のからだ」であり
言わば「霊の物質」です。やはりあくまで霊が主体本質なのです。


あのキリストの十字架において、神が真に意図されたことは
「それまでの物質界」の総てを総決算する、と言うことでした。
それは「物質を真の実体であると私達が認識しているその認識」
に対する神の一大チャレンジと
神が実際的に「物質を切り離し取り除く」と言う断行・執行の為の
決定的な法的断罪であったと言ってもさしつかえないでしょう。

にもかかわらず、十字架は神の最終目的ではありませんでした。
それは、神の心にあった別な実体の導入のためであったのです。
そしてその実体とは何と「復活した人とそのからだ」なのです。

それでは、その復活された人の中にあったものは一体何でしょうか。
それは「神性と人性、そして永遠、無制限と不死不朽」です。それら
を総て包含したイエスキリストの復活と言うもの、更にその復活を
内包し運ぶ所の「あの霊」と言う図り難い価値を有するもの、
それこそが神の目的であったのです。

その人の復活の後、宇宙における総ての評価、判断基準は
革命的に変化してしまいました。私達はどうしてもこの革命に
ついて行かなければなりません。
例えばそれ以後、復活だけが神にとっての「合法」であり、合格
ラインとなりました。それは「主イエスは・・私達が義と認め
られる為によみがえられた。」(ローマ5の25)とある通りです。
従って復活でない義など、神の目には
最早ありえないものと私達は思うべきです。


今この時代「あなたの物質」の奥深い所でキリストと一つになって
いる復活の霊、その見えない小さな一点に、永遠における
神と人の希望が総て隠されているのです。
それ故、この神の最重要真理を啓示されるために、私達はただ
「復活者のことば」にだけ耳を傾けるべきです。
それは「復活も出来ないような者」の言葉に
いかほどの値打ちがあるだろうか、と言う意味です。それは日夜
あなたを訴え続けているウソつきサタンを撃退する
強力な証しの言葉となるでしょう。(黙12の11)


その復活と一つになった私の中の人の霊と言う隠された実体、
その実体への私たちの評価というものが、自分の永遠のあり方を
決定してしまう、と言っても決して過言ではない
と今私は考えているのです。

10 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

神が私たちに与えられた再生の霊は水のように特徴のないものだと思います。総ての人に与える霊は同じであり、水のようであり、そこに黒のインクをたらせば、それは黒のインクの性質を伴った霊になります。未信者は霊を持っていないと言い切れるかどうか分かりませんが、例えば未信者が高慢であったとすると、それは高慢であるだけであり、高慢な霊は持っていません。しかしクリスチャンは高慢であると、高慢であると同時に高慢な霊を持ちます。未信者が口を開くとき、相手に伝わるものは、その言葉の内容や態度だけです。しかしクリスチャンから発せられるものは、それらだけではなく霊が流れ出てきます。言い換えればクリスチャンはとても重要な責務を神から受け取った存在であります。我々クリスチャンは、日々自分の十字架を負い、対処され、キリストの復活の霊のみと一つになるしか神に仕える方法はないのです。私自身、そして世のクリスチャンが主と一つでありますように。アーメン。
庭に屋根つきのパーゴラを作りました。庭のもみじが真っ紅に紅葉しています。今日は快晴で気持ちがいいので、庭でバーベキューでもしようかと思っています。

Mr.Sugar さんのコメント...

霊に魂がからみついている為に、霊が出て
来る時、魂の不純さも必ず現れて来る
ということでしょう。
問題は「不純さ」です。
ですから私達は神の前で、強力な影響力
よりも、純粋さを求めるべきでしょう。
私達から純粋な霊が流れる時、たとえそれが
極小さいとしても、神の前ではその価値は
極めて大きい筈です。それは光りとなり、
時空を超えて人の命の中で働くでしょう。

①絡みついている魂が霊から分離
される為の啓示と
②自分を祭壇に横たえる時に働く十字架の
「魂の命を死に至らせる力」がどうしても
必要とされるゆえんです。

それにしてもキリスト者にとって
「不純さ」の問題は賜物が大きければ
大きいほど困難なものとなるでしょう。
なぜなら、私は自分の不純さを撒き散らし
同類を沢山 産出してしまうからです。

霊があるか、キリストを持っているか、
と言う問題は既にクリアされています。
最も困難で重要なのはその後です。

しかし、主の再来をさえ地上にもたらす
キリスト者の「働き」と言うものが
もしあるとするならば
それはただ「純粋さ」の中に見出される
だけでしょう。
今日神が私たちに求めておられるのは
ただ一点そのことのみであると信じます。

匿名 さんのコメント...

『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠と生きる者となるおそれがある。・・・・・アダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビム、きらめく剣の炎を置かれた。』(創世記3:22~24)
この時、神は善悪の知識を持った人間から神の命を与えることお止めになった。善悪の知識と神の命の両方を持つことは、とても恐ろしく、とんでもないという印象をこの部分から読み取ることができます。しかし、現在の多くのクリスチャン(もちろん私も含めて)は、実はこの両方を持った存在なのではないでしょうか?アダムが罪を犯そうが犯すまいが我々は神の命を必要とします。私たちの内なる霊が復活のキリストの霊とのみ一つとなっていることを知り、そしてそれを信じることができますように。

匿名 さんのコメント...

横から大変失礼します。奈良のSaltです。

とても大事なトピックだと思いますし、このブログでは山小屋暮らしのSugarさんの日常とともに、極めて霊的な事柄が丁寧に発信されているので、ひとこと書かせてください。

>神が私たちに与えられた再生の霊は水のように特徴のないものだと思います。総ての人に与える霊は同じであり、水のようであり、そこに黒のインクをたらせば、それは黒のインクの性質を伴った霊になります。

と書かれていますが、これには全く同意出来ません。復活は「キリストの血による贖いを経た新創造」の世界であり、そのひとつの醍醐味は無限の多様性とイエスにある調和です。

それは善悪の統制による規律や同一性とは全く別次元のものだと私は感じています。

特徴のない同じような水をそれぞれの「私」という器に注がれ、黒なら黒、青なら青のインクに染められるだけ・・・・?

そんな風に考えることがクリスチャンが負わされている責務だとしたら、少なくとも私は全く果たしておりません。

Mr.Sugar さんのコメント...

「地のチリで人を形造り、その鼻に命の息を吹き込まれた。それで人は生きた魂(ダービー)となった。」と創世記にあります。

ですから、私は「人の霊」とは「その神から吹き込まれた息」だと思っています。(当然これを神の霊であるとは言えません。人が神によって与えられた最も奥深い機能です)

体に「人の霊」が入った時、第三の存在・人の魂が生じました(体、霊、そして魂)。
ですから、明らかにキリスト者であるか否かとは関係なく、人は霊と魂を持っています。

人の霊によって人は(当初は特に鮮に)
「神の意識」を持つことができます。
その人の持つ一つの機能としての霊に個性が
あるかどうかは分かりません。多分私は
「無い」とおもいますが・・

しかし第三の存在・魂(自分を意識する人の
機能・知情意)には当然個性があります。

さてキリスト者とは「人の霊」の中に復活のキリストの霊を受け入れ、その二つの霊が一つとされた稀有な存在であると思います。
ですから、この部分においてだけは、何と
イエスキリストと共に、私達は総て同じ
なのでしょう。(若い果実のようにまだ
成長していないとしても)
この部分にこそ、人の永遠における
希望があるのです。
何しろそこに私達は、復活のキリストを持っているのですから。

現在未信者の場合、霊の機能は
肉体と魂に存在する「肉」によって
相当部分、抑圧されており(或いは仮死
状態)まれに良心が機能するくらいです。
それが今日多くの悲劇の源です。

以上が私の、霊と魂に関する「基本的な」
意見です。

今はこれぐらいにします。しかしおそらく、これ以後の話に、この度の争点が
隠されているのでしょう。すみませんが、
私はまだ、その争点がどのように隠されているのか、またお二人の感じ方がどうなのか
を完全には理解出来て
いないのだと思います。

しかし、これは確かに難しい問題ですが、
とても大切な問題です。これから
私も真摯に向き合って行きたいと
思います。どうぞ、よろしく。

匿名 さんのコメント...

Sugarさん、ありがとうございます。

人が旧創造において与えられている霊は、血による贖いを受けて新創造の復活の領域に入りますが、それは「キリストの霊との一体」において、ひとつの音楽を奏でるのだというイメージを持っています。

それは、オーケストラの楽器のようにはっきりした個性を持っていると理解しています。

個性は、個体を引き離すのではなく、つなぐのです。バラバラにするでのではなく、調和させ統合させるのです。

いのちのない楽器の個性でさえ、お互いの音色を引き立て、お互いを結びつけるものであるとすれば、クリスチャンの賜物は、いかばかりでしょう。賜物はひとつの霊の現れ方であり、偉大な御方の多様の属性の反映です。

贖われていないすべての人の本質である霊と、クリスチャンの贖われた霊、そして、御国を受け継ぐ保障としての聖霊と御国の具現化のための賜物など・・・・それぞれのことばが意味するところや境界線はとても微妙で繊細ですので、混同されたり、乱暴に解釈されたりしていることが多いのではないでしょうか。私も私が実感していることや経験していること以上のことは知りません。

お会いしたときに、Sugaerさんのお考えをご教授ください。よろしお願いします。

匿名 さんのコメント...

上のコメントは再び、奈良のSaltでした。

匿名 さんのコメント...

いやいやSaltさんの本質的、根源的な問いかけに感謝します。生半可な受け売りの知識でこんなことを書いて、混乱を与えてしまい申し訳ありません。しかし、「私」とは、「自己」とは何でしょうか?ここに私が存在する目的は何なのでしょうか?私は今でもこれを追及しており、明確な答えはまだ得られておりません。また贖われていない未キリスト者の霊と贖われているキリスト者の霊の違いとは何でしょうか?仮死状態の霊かそうでないかの違いはあるかもしれませんが、もっと本質的な違いとは何でしょう?贖われているキリスト者の霊は、従来どおり復活のキリスト以外のものと一つになることもできるし、復活のキリストと一つになれるということであり、途方もない選択肢が一つ広がったと言うことではないでしょうか。こんなことを書くとまた誤解を招くかもしれませんが、未キリスト者はあの途方もない復活のキリストを選ぶ選択肢がないのです。私たちキリスト者は(少なくとも現在の私は)、魂レベルの、あるいは肉レベルの黒や青のインクを選んで、その色と一つになっている状態なのではないでしょうか。こういった意味において何かを選択し、何かと一つになる前の私たちの霊は、水のようで特徴のないものであると書いたつもりでした。私たちが従来どおり、復活のキリスト以外の何かを選び、それと一つになり、そこから出てくる個性、多様性を奏でるか、それとも我々では想像もできない、あの途方もない復活のキリストと一つになり、そこから出てくる個性、多様性を奏でるか・・・。しかしそこには本当に個性はあるのか???すみません、また混乱を与えてしまった??いやいやそこから出てくるものなんて想像できません!

匿名 さんのコメント...

奈良のSaltです。

千葉のMさん、ありがとうございます。

死が「無」であったり、自己が「没個性」であったりというイメージは、霊的な永遠の
ことを、この時空における出来事の延長として善悪の座標面に投影しているに過ぎないと思います。

勿論、義と認められる何らかのプラスの評価を受ける「私」など存在するわけがなく、すべては覆われ、贖われているのですが、神が「私」に属する一切を見ていないとしたら、キリストは何を愛し、何の身代わりになられたのかという疑問が残るわけです。

それは、贖いを抜きにした高価で尊い「私」ではなく、贖われた後にキリストにおいて完成された「私」をすでに神がとらえていてくださるのではないかと信じています。

神がいのちを賭して贖われた「私」が無色透明の没個性で交換可能なキリスト教戦闘員などであるはずがないと思っているのです。

これは、私クリスチャンとしての、いや、私だけでなく、すべてのクリスチャンのアイデンティティーの根幹にかかわる大事な問題だと思ったので、失礼して意見を述べさせていただいた次第です。無礼をご容赦ください。

パウロは、「キリストの復活に達することを追求」していました。その望みはキリストが私を捕らえてくださったという点にあると告白しています。(ピリピ3:10~16)

私は私の達している基準以上のことを語ることばを知りません。ですから、ある兄弟たちから見れば、恐ろしくレベルの低い当たり前のことを言っているのかも知れないし、間違っているのかも知れません。

ただ、自分が信じていることを、誰かのことばを借りずに伝えること、これが証だと私は思うのです。

Mさんにもいつかお目にかかれることを期待しています。

匿名 さんのコメント...

こちらこそSaltさんのご指摘、ご意見をきっかけにもう一度『わたしではなくキリスト』ということを考える機会を与えてくださったこと感謝です。個性、多様性というお話は奥が深く、困難なテーマですね。私はキリストがあれば私の個性はなくなってもいいと思う??思い始めている??思いたい??というのが正直な今の気持ちです。探求はこれからも続きます。これからもどうぞよろしくお願いします。