2008年11月22日土曜日

十字架、復活と昇天の相違(2)

創世記一章に出てくる神の「創と造」における二日目、三日目、四日目
は、十字架、復活、昇天と言うキリストの経験に対応するようです。

二日目の神の作業(実は御子の作業だった)は「上の水と下の水
との区別、分離、隔絶」でした。キリストの死・十字架の御業の
特徴もやはり区別と分別です。中央、中間に十字架が立ち、
その左右、上下にあるもの(例えば二人の強盗)をキリストの死は
決定的に分断隔絶したのです。

三日目はご存知、復活です。死の水の中から、乾いた地が昇って来た
のです。それ以来、神は陸と海の間に境界線を設けられ、神は陸を
守っておられます。しかしながら実は陸地のすぐ側に海(死、罪、肉、
この世等)は依然として存在しているのです(黙示録21の1までは。)
従って私達は、今の時代、自分の態度一つによって、常に海の影響から
自分を守る必要があるのです。しかしそれは難しくはありません。
何故なら私達はただ陸地に留まりさえすればよいからです。
(「留まる」はキリスト者にとって最重要キーワードの一つでしょう)

陸地とはなんでしょうか。陸地とはイエスの復活によって何と神性を
人性と一つにされたある領域です。実に私達は今その中に召し込まれて
いるのです。それは具体的にはどこにあるのでしょう。そうです、
それはあの「今日の復活された奥義的キリスト御自身」以外の
どこにも存在するはずがないのです。そのキリストとの結合により、
私達は初めて、日々キリストと共に復活させられた生活を
この時空の中でさえ送ることが可能となるのです。

四日目の特徴は種々の天体の光です。神は天に太陽、月、
星を「造られた」(クリエーションではありません)のです。
以上のキリストの御業、即ち十字架、復活、昇天は、それらに
自分を重ね、この私達の肉体を通して、キリストの経験をこの地上・
私の時空内に再現する為のものです。従って私達は日々・・

二日目の死ぬ生活、即ちキリストの死の力によって他の
悪しきもの(罪、肉、この世、宗教、律法等)から私を分断する
生活、そしてまた、神が私たちに与えられたあの領域(今日の
キリスト)に留まることによって海の影響から
超越する復活の生活(三日目)
そして太陽と共に天に留まる発光体(月と星)として、暗闇
(サタンの支配)を照らしあばき、その影響を、少なくも私
関連の事象内においては、消し去る生活を、換言すれば
この世においていわゆる「一隅を照らす」生活を営むべきです。
悪しき霊どもの暗闇をキリストの反射光によって照らし、暗闇を
追い払うと言う敵に超越する高貴な生活が昇天の生活の特徴です。


これらは総て「私達のキリストとの結合」と言う事実がもしも
存在しないのであるならば、ことごとくおとぎ話と等しい価値しか
ありません。もしもそうであるならキリスト者ほどおめでたい
人々はこの世にいないことになります。それ故に、パウロは
「キリストにあって」「キリストの中で」を絶えず強調した
のです。したがって「私がキリストの経験を追体験する」は総て
IN CHRISTにかかっていると言っても過言ではありません。

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