「ただキリストの過去の経験と結び合わされる者だけが、
キリストの将来の栄光と結び合わされます。」
これはあるキリスト者の言葉です。
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永遠と言う観点から見て、それがいかなる人の、いかなる経験
であろうと「人の独自の経験」というものに神が評価を与えることは
あり得ません。神が認められるのは唯キリストとその経験です。
ですから私たちの総ての経験というのは、キリストが過去に達成された
キリストの経験から来なければなりません。神がよしとされる私たちの
経験とは、過去のキリストの経験に「自分を重ねる」時に、初めて
無理なく生じるものです。この世、そして親から受け継いだ遺伝や、
自分が獲得したものなどの中から、何とか「私の素晴らしい経験や実行
をひねり出す」と言うのでは「神の基準」には絶対に届かないからです。
何故でしょう。なぜなら、たとえそれが人の目にはいくら立派に見えた
としても、それらの産物は所詮総て第一の人・古いアダム、古い創造に
起源を持つからです。それは私達ではどうにもならない必然です。
ですから神は何と二千年前、既にそれら総てを、最後のアダムの肉の
中で死刑と言う断罪に処してしまったのです。そのことこそ、人類の
歴史の真ん中に立てられた十字架によって、神が今に至るも
全宇宙に向かって宣告している事に他ならないのです。
ですから結論として私達は「どうにかして」ただこの復活された
新しい第二の人・キリストから、即ち死の水から上がって来る
ことが出来た只一人のお方だけから「私の経験」を
引き出さなければならないのです。(実はそのことに対する私の
神への同意として、私はバプテスマを受けた筈です。)
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21世紀に生きる私達が、2千年まえのキリストの経験を引き出す?!
なぜこのような途方もないことが可能なのでしょう。
①なぜなら、キリストイエスは私と言うアダムとピッタリ符合し、
ピッタリ重なることが可能な正真正銘の私と同じ人・アダムになられた
からです。即ちイエスは最後のアダム・人類の総合計として、私と言う
アダムを彼の内に含んで十字架に付けられたからです。
もしもあなたがアダムであるならば、どんなアダムであろうと
やはりアダムです。これは生命と言うものの持つ一つの
動かしえない特徴ではないでしょうか。これは即ち、同種の生命に
見られる生命の同一性と言うことです。
「一人の人が総ての為に死んだ以上、総ての人が死んだ」(Ⅱコリント
5の15)このパウロがしばしば主張した主張、即ち「最初のアダムの
中で人類は全員もれなく罪を犯した」と言う主張とそれは原理において
全く同じものです。パウロは続けます:
「もし、一人の人の違反により、一人によって死が支配するように
なったとすれば、なお更のこと・・受けている人々は一人の人イエス
キリストにより、(全員)命にあって支配するのです。」
(ローマ5の17)
②そしてまた同時にイエスキリストは永遠の神でもあられる故に、当然
その総ての経験には、時空を超えた永遠性があるからです。時空の中では
それは二千年前の出来事でした。しかしキリストの十字架は時空を超越して
今この瞬間もあなたが受け入れるばかりの所に存在しているのです。
③更にもう一つの理由は聖霊の存在にあります。
「あなたが、既に神によってキリストと重ねられている、即ち彼と
一つとされている」と言う神の真理に単純に信頼を置く時に、
これまた永遠の中におられ、総ての制限を超える能力をお持ちである
聖霊は、実はキリストの経験をあなたの肉体を通して、時空の中へ出現
させる為に、今か今かとあなたの信仰を待ち構えておられるからです。
それはあなたの為に遣わされている聖霊の言わば「専門職」なのです!
④そもそも私達の父なる神は、人に無理難題を押し付ける神ではなく
あの放蕩息子の父のように、私やあなたの為に総て、全部を
なさりたい方であり、御自分の所有の一切を私達に与えたい
方なのです。もしあなたが「あの兄」の様にそのような
父なる神に「させない」のであるならば、あなたは父に
大きな苦痛を与えることになるでしょう。
三で一の神はあなたの為に働きたい神です。神に感謝します、
正に今は恵みの時代なのです。
ですから私たちに必要とされるものは、ただ二つのこと:
神の言葉と神の能力というものへのあなたの実際的信頼と、
そして自分の存在と能力に対する絶望です。
☆
私達が自分を重ねるべきキリストの経験とは、彼の受肉、人と
しての歩み、十字架に向かわれたこと、死、復活、昇天の中で
十字架に向かわれたこと、死、復活、昇天と言う部分です。
★お知らせ
このブログに何度も登場された、あの台湾の87歳の姉妹
楊劉秀華さんから「皆さんの交わりに参加したいので、次回の
我孫子の集まり(12/6)に行こうと思っています。」との
連絡が台湾からありました。
その次回の我孫子の集まりの時間と場所は
12月6日(土)我孫子「ケヤキプラザ」録音室です。
*
「ケヤキプラザはJR我孫子駅南口から左に歩いて1分、
イトウヨウカドウのすぐ前の、新しく白っぽい背の高いビルです。
12時半、プラザの玄関ロビーに集まり、皆で食事をしてから
1時半前に録音室に向かいます。1時半に録音室に直接行かれても
いいです。部屋が狭いかな、でも参加はどなたも自由です」との
我孫子の兄弟の言葉です。
7 件のコメント:
神様は、今でも生きて存在しているので、経験はいつでも出来ると思います。
人との経験を望んでいるのは、神様です。
私の場合は、神様のほうから、話しかけてくれたのです。 イエス営業部になるずっと前も、そのあとも。
神様を感じるときもあり、感じないときもあるけど、劇的な経験から、主はすぐ横にいる、という確信があります。
現在でも、5000年前、いや、この世が出来たときと同じように、主はいます。
あなたのすぐ横にいます。 ごはんたべているときも、お風呂にはいっているときも。
いやー、こうやって見るとダラスはすぐ
隣のお家ですね。
時空って何だろう?
こうなると時空の方が何だか難しく
感じられませんか!
だから
あかしやさんが言われるように
神さんは実は凄く近いはずです。
それにひきかえ、
神は遠いよ、むずかしいよ、クリスチャンに
なるのはもっと大変だよ、
などといつも私たちにささやくのは
何者だい。それは
あの狡猾なうそつきの人殺しに決まって
いるのです。
でも皆さん、そのうち出来れば
このダラスの姉妹と
顔と顔を合わせて交わりたいですよね。
ダラス、すぐそばですよ。 成田空港から、一眠りすれば。 うちは、空港から10分です。
子供二人に、住宅ローン抱えてぴーぴーなので、いつ、日本に行かれるか??です。
今、円高なので、山から下りて、皆さん引き連れて、ダラスにきてくださいな。
といっても、ここは何があるんだろうか? まわりに馬や牛、バッファローがいる。 40分走れば、ケネディーの暗殺の場所がある。 そんなところですか。 でも、教会は沢山あるし、神学校で賛美専門学部があるのですが、たまに、賛美のコンサートがあります。
「あの狡猾なうそつきの人殺し」ですら、神さんの支配下です。(ヨブ記の始めご参照。)
そして、エペソ5章の後半に書いてあるように、私たちは、御言葉の剣をもち、真理の帯を締め、神が備えてくれた防具と武器をもって挑めばいいのです。 そして、賛美でも、それは、退散します。
日本では、それが特に必要です。
ですから、仙人様、山からたまに降りてきて、あちらこちら、行って下さい。
Mr.Sugarはついに仙人様ですか、まあ、昔からそう思ってはおりましたが^^
12/6にはひとり私の学生を連れて参りますので、よろしく。
山、遂に初雪です。うっすらと森にかかった雪が朝日にキラキラと輝いています。
ダラスも雪、降るのかな。それと主は
いつ連れて行ってくれるのかなー。
私 多分12月4日に下山して、戻るのは
15日になるでしょう。今新潟で潜水士
(海にもぐる人)をしている末の息子、
ワタルが「彼女」を連れて年末に
小屋に来るかも知れないなどと・・。
6日は楊さんの独演会になってしまう
かもしれませんよ・・。
いつかどこかで
「あかしや」さん(落語家みたい)の
独演会もぜひ聞きたいものです。
ほお、わたるクンがね・・・。懐かしいですね、あの頃が。代々木のマンションに3人で遊びに来てくれた時の写真がありますよ。みんな小学生の頃。
あと、今ビデオをデジタル化しているのですが、90年頃のSugarさんが(40台?)、あのオフロードバイクに乗っている姿もありました。山小屋で年末にでも映写会しましょうか^^
それと6日に同行しますのは"元"学生です。つまり年齢はけっこう・・・ですので。
了解です。
40代の私、オフロードバイク250CC、
そうあの頃
あばれていたのです、主の前で。
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