2008年11月17日月曜日

千葉のMさんのコメントから

Mさん:
今日は朝から雨です。
静かな午後のひと時が流れていきます。

さて、肉としての我々の根源は、反逆心だと思います。
肉の根源であるサタンの根源は、神の権威への反逆です。
それは実生活、人との関係において露見してきます。それは
理屈ではありません。見えるものは、見えないものに支配
されています。一方、神の子としてのキリスト者がこの時空に
実際のキリストを降ろしてくる方法は、信仰による完全なる服従と
Sugarさんが敢えて表現しました、信仰により
『「あのイエス(今日のキリスト)を自分とする」』
これしか方法はないのでしょうね。

sugar:
もし「聖画に出てくるロンゲのナザレのイエス」を自分である
と言うならば、その人は精神病患者でしょう。また「私は再臨の
キリストである」などといえば、その人も患者さんであるか、相当
危ない人に違いありません。
しかし「今日のキリスト、今現在天と地に同時におられるあの奥義的
キリスト」の中に私は存在している、と言うのはなんらの問題も
ありません。なぜなら私達は「キリストのからだ」であるからです。

さてからだと頭を分断することは不可能です。カクレンボで太郎君
の背中を見つけた次郎君は、その背中だけを見て「あ、太郎君だ」と
言います。私達一人一人は当然、その奥義的なキリストのからだの
ホンの一部に過ぎないのですが、同時に私一人の中におられる
神聖なるお方は「一人の完全なキリストの全体」でもあります。
だから私の中のキリストは部分であって、しかも全体なのです。
これはやはり時空に制限された人の理性では到底解き得ない
一つの奥義であると言わなければならないでしょう。

「私はブドウの木(イエスはブドウの幹とは言われなかった。それに
しても、ブドウの木の幹と枝の境目はどこなのでしょう。)であり、
あなた方は枝です」と主イエスは言われました。ですから私達こそは、
ブドウの木(今日のキリスト)の構成要素です。何故なら枝枝の
総合計がブドウの木であるからです。

今日科学者は、一植物のどんな小さな細胞一個からでも、その植物の
全体を引き出し、再生再現することが出来ると言います。一個の種の
様に何とブドウの木のどの一細胞の中にもブドウの木の全体があると
言うのです。(やはり地上のブドウの木は「天地にある唯一の真の
ブドウの木」を指し示してくれているのです。)

ブドウの一枝は、それが何らかの理由で不幸にもブドウの木の
命から切り離され、火にくべられようとする時に、即ちエクレシアの
交わり、キリストのからだの命の交わりから分断される時に
初めて個の意識、即ち部分感覚、独立独歩感覚、自給自足感覚等が
発生するのです。実のところ、その感覚は、そもそもエデンの二本の
木の中、あの禁じられた木の実を人がとった事に起源を持つのです。

しかしながら、人が真の命の交わりの中にある時、私達が
キリストの中に留まる時、また「枝が自分をブドウの木とする」時、
即ち私達が善悪を知ろうとする呪いから逃れ、あのもう一方の木、
命の木の実・キリストにあずかる時には
そこには「個の感覚や意識、そして主張」は最早消えうせ、
天地におられる唯一の新しい人・キリストだけが
総ての総てであることを知るのです。


・「からだの部分は多くあっても、その全部が一つのからだであるように
あのキリスト(今日のキリスト)も同様です。」(Ⅰコリント12の12)
・「その日には、私が父におり、あなた方は私におり、私があなたがたにおる
ことが分かります。」(ヨハネ14の20)
・「サウロ、サウロ、なぜ
私(サウロが迫害していた当時のキリスト者達)を迫害するのか」
(使徒9の4)
・そこには、ギリシャ人とユダヤ人・・はありません。キリストが総てであり
総ての内におられるのです。(コロサイ3の11)

2 件のコメント:

mopoopoo さんのコメント...

ぶどうの枝とはよくぶどうを1ふさ取って食べようとするときに、おしりの所2〜3cm何もみのついていない部分がありますが、あの2〜3cmの部分が枝なのだそうです。
言葉で説明するのが難しいです。スーパーで買ってきたぶどうを1ふさつかもうとしたら、たいていの人がつまむ部分ですね。

Mr.Sugar さんのコメント...

え、何?
誰か補足説明して
くださいませんでしょうか。