2008年11月15日土曜日

十字架、復活と昇天の相違

キリストの死、復活と昇天には当然ながら相違があります。しかし
その相違の中で、一番大切なポイントは何なのでしょうか。私は長い間 
これがハッキリしませんでした。しかし今あることを少し見させられつつ
あるように思います。

その前に、死、復活と昇天、この両者の共通点を見て見ましょう。
その共通点とは、神の子キリストが「人の代表として」達成された
ことです。だから、この両者において達成された事実は人に対して、
即ち私たちに対してもたらされたのです。即ち、私達は何とキリストの
死において彼の中に包含され、これらのキリストの経験を彼と共に
通ったことになる、と言うことなのです。


さて本題である「両者の相違」ですが、先ず死・復活は
キリストの「バトル(戦い)と勝利」です。獅子・子羊としての
キリスト(黙5の5、6)は十字架と言う敵の戦場で戦い勝利を
得られのです。即ち敵にとっては全く意外な結果となってしまった所の
「人の復活」においてキリストは言うならば勝利の雄たけびを上げられ、
敵のフィールドにスックと立たれた、と言ってもよいでしょう。これが
キリストの十字架の戦いと復活におけるの勝利の象徴的な表現です。

次に昇天とは、その戦いと勝利の結果、覇者キリストが神によってある
高貴な空間である言わば「天の貴賓室」に導き迎え入れられた
と言う事です。その第三の天と言う貴賓室は総てにおいて卓越した場所に
違いありません。その貴賓室で彼を待っていたものは3つあり、それは・・

①先ず椅子です。(聖書では、椅子などとは言わず「座」と呼んでいます)
座とは権威を執行する場です。天にある座に座すお方は今、宇宙に対して
この時代における神の権威を執行しておられるのです。民主主義国家
日本の総理の椅子に座る麻生さんでさえ、以前と今とでは彼に対する
周囲の反応は全く異なったことでしょう。それは当然アソウタロウの
力と言うよりも総理の椅子が本来持っていて、この度彼に与えた権威と
パワーなのです。しかし天の座は王国の座なのです。

②次は冠です。それは「茨の」でなく「栄光と誉れの」冠でした。
ヘブル書2の9に「御使いよりもしばらくの間、低くされた方である
イエス・・は死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けに
なりました。」とある通りです。戴冠式を経、王とされた人とそれまで
民間の間で暮らしていたそれまでの彼とでは根本的な相違があるのです。
栄光とはその本質が現れ輝き出ることであり、敵は主イエスの栄光の
光について考えるだけでおびえてしまうに違いありません。

③また彼に対して総ての名に超越する御名が与えられました。その御名の
前では「総ての者が膝をかがめなけれならない」と神の言葉は言います。
この第三の天において彼に与えられた「イエスと言う名」はナザレに
おられた時のイエスと言う名と表面上では同じですが、その名の内容、
その力と重量においては全く違うのです。

私達は今、その名の権威を真に知り、更に日常総ての中でこの力ある御名
の中に留まる必要があるのです。それが「御名の中で」と言う意味です。
(よくあるように、祈りの最後に「これで私の祈りを終了します、次の人
どうぞ」などと言う意味でイエスの御名を用いるべきではありません。)


これらの天においてイエスに授与された3つのものは総て
1.「神が」神の絶対的な言葉によって絶対的な権威の下に授与された
ものでした。それは「絶対」なのです。なぜならそれは「神が」である
からです。この「神が」と言う言葉の意味は多分私達よりも、天使や
悪鬼達の方がより深く認識していることでしょう。「神を知り、神を
神とする」と言う単純に見えるテーマこそが最も深遠な課題であることは
論を待ちません。彼は神であり、あれは神の言葉であり、
これは神の権威なのです。

2.そしてそれらは、神によるオフィシャルで公式正式の授与でした。
それはあたかも、ある学者が隠れた研究室で素晴らしい学問上の業績
と言う事実を持つことと、それが皇居でその功績が公式に天下に
号令・布告される、のとの相違を意味しているのかも知れません。

そうです、神の一人子イエスが命を賭して成就された偉大なる功績
に基づき、神がその御子の達成を全宇宙に対し既に公式に号令・布告
されてしまったのです。ダニエルの王の場合の様に、神の意志に
基づいていったん公式にオフィシャルに宇宙に対して布告号令された神の
言葉は、その神といえども再びそれをくつがえすことは不可能でしょう。
しかり、たとえ天地が崩れ行くとも、神の言葉はその一点一画さえ
変更されることなど絶対にあり得ないのです。(にもかかわらず、今
神の国が隠されているこの時代において、この事実を今地上の誰が
真に見ることが出来るでしょうか。)

3.そして当然これら3つは総て、ナザレのイエスに授与されたある
「地位」を意味しています。その地位の特徴は「高貴」です。それは
高度において極めて高く、そして最高度に「貴」です。極めて強大な
パワーも貴に対しては平伏するのです。貴ほど高く権威と栄光あるもの
はありません。しかし人の言語の中に「この高貴」の高度とその
ロイヤリティの極致を的確に表現し得るものはありません。せいぜい
パウロのように「諸々の天(時空宇宙の最高点)よりも遥かに高い」
とでも表現するしか無いでしょう。

そして極めて重要なことは、総じて昇天のイエスは、神が神の敵の陣営に
対して大いに誇り、意識する存在であると言うことです。私達も今
この事実を神が見ておられるように見る必要があるのです。


私達は「以上の神の既成事実であるイエスの死と復活の勝利、そして昇天
における「何者も近づき触れ動かし得ない高貴な地位」の中に「今ある
現実の中の自分」を持って行き、重ね、一つにする、敢えて言うならば
「あのイエスを自分とする」必要があります。換言すれば、それは
信仰によって昇天のイエスと私を一つに結合させる、と言うことです。

しかし何故そのようなことが可能なのでしょう。何故なら、その事実は
神によって既に達成されているからです。従ってあなたのするべきことは、
ただ信じることにより黙ってその事実をいただくことでしかないのです。
それは私達が初めて永遠の命を賜られた時と原則においては
全く同様です。幸いなるかな、今はまだ恵みの時代です。

私たちの総ての今の「のぞみ」はその一点に凝縮されています。なぜなら
私達には「善きもの総て」を、唯「イエスキリストから引き出す」
以外に「方法、手段」と言うものは他にあり得ないからです。それこそが
実際的に「十字架・復活と昇天のイエスを信じる」と言うことです。

そのような意味で彼を信じることによって、それらの霊的な事実を
自分の生活の中に生かし出し、この「私の時空」の中にさえ、それらの
勝利と高貴な地位を再現し、神の敵を辱める生活を日々営むことこそ、
私達エクレシア、教会の使命に他なりません。

11 件のコメント:

mopoopoo さんのコメント...

「栄光とはその本質が現れ輝き出ることであり・・・』
明確な定義です。よくわかります。

「私達には「善きもの総て」を、唯「イエスキリストから引き出す」
以外に「方法、手段」と言うものは他にあり得ないからです。」
アーメン!

Mr.Sugar さんのコメント...

もぶぶさん、感謝です。

更に、イエスキリストの

昇天と御座の意味を

深く知る願いがおこされています。

mopoopoo さんのコメント...

私の場合この記事の20~30%ぐらいしか理解できないのですが、記事全体に「いのち」を感じるので、楽しみながら読んでいます。
「いのち」の中で少しずつ御言葉を理解させていただいているといった感じでしょうか。

匿名 さんのコメント...

おはようござおます
お久しぶりです。
新創造ですね。生身の罪にまみれた「肉」でしかない私の中に臨在されるキリストさまの恵みによって、今、天の御座に、キリストと共に座らせてくださっていることを感謝します。 勝利の御座で、キリストが得られた勝利、栄光のなかにいることの満足と喜びと希望はふつふつと湧いてきて、この心地よさは決してなくならないことを感謝します。 

Mr.Sugar さんのコメント...

本とに有難う。

「理解」については背伸びしない方が
いいと思います。知的理解だけでは
大して役に立たないし、何を得たことにも
ならないからです。

真に大切なことは、先ず 
人が「何か」に引き寄せられ「知ることを
求めて」人が直接自分で神に迫って行く
ことです。その時 他のものではなく
「本能的な」「神そのものが欲しい」
と言う欲求がその人の根底にあるべきです。
もしそうであるならば、
後は聖霊が総てをなさるでしょう。

キリストの受肉、十字架に向かったこと、
死、復活、昇天は神の御業の中心です。
ですから
その奥深さは無限であり、こんな魅力的な
ものは他に在るはずがありません。しかも
そのそれぞれを私達が自分の生活の中で
経験出来るのです!

そのそれぞれの御業にある、多くの面、
またその各面上にある無限の点を
知り経験するためには
古今東西の無数のキリスト者の
「キリストそのものを求める」真実な
追求がどうしても必要です。
私が今回 書いたのは当然その極々一部
に過ぎません。

この種の小さな発見とそれに基づいた
経験が満ち溢れ、先を争うように語り
合うのが、
キリスト者の真の交わりなのでしょう。
交わりこそ(単なるトーキングではなく)
エクレシアの本質です。

初代教会があんなにも生き生きしていた
のは「色んなところに自然に出現した
沢山のなんでもない普通の兄弟姉妹の、
日常の中に現れた小さな交わり」が
常に、そのような時間を忘れてあたかも
永遠の中にいるような「沸き立ち」の中に
あったからだと思います。
もしも集まりにその種の「沸き立ち」がないとするならば 
どこかに障害がある証拠でしょう。
(彼らは時には多数でも集まった)

主の再臨を前に、今神はそのような
「回復」を全世界規模で少しずつ始められて
おられると私は信じているのですが、
どうでしょうか。

Mr.Sugar さんのコメント...

いちわのすずめさん、有難う。

「満足と喜びと希望はふつふつと湧いてきて、この心地よさは決してなくならないことを感謝します。」
すばらしいことです。

更に キリストの達成が 私達の生活の中に現れ出ることを慕います。キリストの
死と復活、そして
昇天が私の暮らしの中に出現することを! 

匿名 さんのコメント...

今日は朝から雨です。静かな午後のひと時が流れていきます。

さて、肉としての我々の根源は、反逆心だと思います。肉の根源であるサタンの根源は、神の権威への反逆です。それは実生活、人との関係において露見してきます。それは理屈ではありません。見えるものは、見えないものに支配されています。一方、神の子としてのキリスト者がこの時空に実際のキリストを降ろしてくる方法は、信仰による完全なる服従とSugarさんが敢えて表現しました、信仰により『「あのイエス(今日のキリスト)を自分とする」』、これしか方法はないのでしょうね。

匿名 さんのコメント...

今日は朝から雨です。静かな午後のひと時が流れていきます。

さて、肉としての我々の根源は、反逆心だと思います。肉の根源であるサタンの根源は、神の権威への反逆です。それは実生活、人との関係において露見してきます。それは理屈ではありません。見えるものは、見えないものに支配されています。一方、神の子としてのキリスト者がこの時空に実際のキリストを降ろしてくる方法は、信仰による完全なる服従とSugarさんが敢えて表現しました、信仰により『「あのイエス(今日のキリスト)を自分とする」』、これしか方法はないのでしょうね。

Akashiya さんのコメント...

私は難しい解釈は出来ませんが、こう思います。

イエス=神
イエス=人間の姿をとった神

人間とコミュニケーションと関係を持ちたいので、そういった姿になられた。

神様だから、この世と神の国を行ったりきたりできるイエス。

人間の形をもったイエスにそれができる。 この世にいてイエスを信じる者たちは、死はこの世と神の国の通過点でしかないということに希望を見出す。

こんな単純な解釈しかできませんけど。 


先日、”90 Minutes in Heaven"というベストセラーの本を2日で読みきってしまいました。 確かに、神様の国は存在します。 いいところみたいです。行ったら、帰ってきたくないところらしいです。

そこで、私たちの家を用意してくれているイエス兄さん。 さすが、元大工さん。

だから、みーんなが、そこにいかれるように、神さんは、マルコ16:15、マルコ28:19で命令されているんですよね。

それが一番大事。 アメリカ選挙で、Abortionだの、Gay Marriageだの、と騒いでいますが、そんなのどうでも言いや、と思います。

ps。ところで、弊BlogでSugarさんのBlogを紹介させていただきました。

あかしや

匿名 さんのコメント...

You really make it appear so easy together with your presentation however I to
find this matter to be really something which I think I would never understand.
It seems too complicated and very huge for me.
I am looking forward in your subsequent submit, I will attempt
to get the cling of it!

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匿名 さんのコメント...

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