表題はⅡコリント12の9別訳です。
キリストの力が私の上に幕屋を張るための条件は
唯一私の「弱さ」です。しかしこの弱さは「私の生まれつきの
弱さ」ではありません。多く誤解されているように、そのような
自分の生まれつきの弱さや失敗をいくら誇ったとしてもキリストの
力が私を覆うことは決してないでしょう。
パウロが意味した弱さとは、私の生まれつきの強さが(そして
生まれつきの弱さでさえも)キリストの十字架の殺す力に触れられた
後に初めて生ずる弱さです。いわゆる私の弱さが、生のままその弱さの
中に留まることなく、更にキリストの殺す力によって「キリストの死」を
実際的に経過した後の弱さです。即ちそれはキリストの死の印を帯びた
弱さとでも言えるものでしょう。かようにキリストの十字架の殺す力は、
神にとって、キリスト者の日々の切実な必要であるのです。
それ故、私達は毎日、私の生来の力一切を「喜んで迎え入れようとする」
キリストの十字架の殺す力に向かい、その力を信頼し、尊重し、信じ、
「その殺す力の上に自分を重ねる」(黙って祭壇・即ち殺す十字架の上に
自分の身を横たえる)意志と祈りを必要とします。これが自分の
生まれながらの一切の力に対する十字架の適用です。
そしてそのような私達の日々の「十字架の力への信頼と適用」がある日
必ず自分の生来の強さや弱さが十字架の死のタッチに触れられ、
根本的に「神の前での自分の弱さ」を真に認識させられる所にさえ
私達を導いて行くのでしょう。
(とは言えその後も、私達は日々十字架の力を信頼しなければならない
のであり、聖霊御自身も私達が十字架に向かわざるを得ない、その時の
私にふさわしい環境を忠実に起こして下さるのです。ここに至りそれは
福音書にある「日々の私の十字架」とさえなるでしょう。)
以上が今朝、Ⅱコリント12章を読んで私が主から語られた言葉です。
「私の力は、弱さの内に完全に現れる」
「私が弱い時にこそ、私は強い。」
「私達生きている者は、イエスの為に絶えず死に渡されている。」
(Ⅱコリント4の11)
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