*キリスト者の3つのあり方について*
神は人間の命や人間の生活を愛するのであるならば キリスト者の
集まり方も「人間らしい」ものでなければならない筈です。 ここで
キリスト者の在り方を人数的に見てみると 2・3人と多数の二種類が
あると言えるでしょう。 しかし実は2・3人の前に一人があるのです。一人
では集まるとは言えませんが、キリスト者が一人でいる時の在り方が
2・3人と多数で集まる場合の土台となることは明らかです。キリスト者が
一人でいる時 もしもそこに何も無ければ、即ちキリストが無ければ
2・3人が集まっても多数が集っても そこには 神にとって価値あるものは
何物も生じることは無いだろうと言わなければなりません。
A:
キリスト者が一人でいる時、主としてそれは他の人々には隠された部分
即ち「根」を形成します。根が無ければ地上に現れる命に いかなる
実体もありません。ですから一人のキリスト者が人々から隠れた
場所でどうであるかは「最重要部分」であると言えるのです。
B:
2・3人の場合 主としてそれはエクレシアの最前線です。そこでこそ
キリスト者は敵と戦い、具体的に神の国を前進させるのです。なぜなら
2・3人での集まり(即ち極少数でのキリスト者のコンタクト) は
人間生活から殆ど離れることなく集まる事が出来る 最も無理なく
自然で融通の利く集まり方(接触、或いは「絡み」)であるからです。
日常における人の生活こそわたし達の真の戦場であることを
決して忘れてはなりません。
C:
多人数の集まり、主としてそれは そのこと自体が目的なのではなく、
それは健全なA、Bの為に機能するのです。聖書によると 時に教会の
大きな問題の解決や方向転換の為に大きな集まりが用いられていた
ことが分かります。CはA、Bが正常に機能するためだったのです。
一人でいる時のキリスト者のあり方やキリスト者の日常生活の為に
こそ多数の集まりが存在するのであり、多数の集まりの為に
それらがあるのではありません。(正常なA、Bの状態が 素晴らしい
Cをもたらすことは明らかですが)
*
深く根を張った一人一人の隠れた生活があって初めて 2・3人での正常
な教会の機能が日常において現れ、その結果 神の国が拡大されます。
この部分こそ教会の前線・メインであり、その場面では
兄弟姉妹が何ものにも拘束される事の無い主体的で自由な
活動が断固として守られなければなりません。
使徒行伝等において、また各時代においてもそうであったように、この
メインの無数の普通の兄弟姉妹による活動は一々記述されることはなく
隠されています。「主のことばは、ますます盛んになり広まって行った。」
(使徒行伝12の24)と言うような簡単な記載でさえ多いとは言えません。
しかしこの簡明な記述の背後に いかに膨大な数の命の拡大ストーリーが
存在したことでしょう。
しかしまた「時には」その2・3人の単位が多数集まることによって教会の
問題が解決され、励ましを受け、またエクレシアの方向が啓示によって
新たに示されることもあるでしょう。しかしそれはその時の確かな必要に
応じて神が与える特別な集まり方であるはずです。従って新約聖書に
おいて数回 この面の内容がある程度詳しく記述されているのです。
当然それはそれに続く各時代の為であったのです。
従って もはや今の時代においては
こういう種類の集まり方は「理想から言えば」無いに越したことは
無いのです。世の迫害のもと神の言葉が日々、ただ命による広がりを見せる
中、かつてそうであったようにいずれこれからも この無数の2・3人による
命の働きが、世の栄光からは隠された方法で 世界のあちこちに
出現する時代が必ずや到来する事でしょう。
3 件のコメント:
いつの間にか庭のヤマボウシの白い花は散っていたことに気づく。季節はめぐる。Sugarさんダダダは買われましたか?昨日とんだアクシデント。朝ごみを出そうとして、妻の車にごみを積み、隣の空き地の駐車場で車をバックでユーターンし、右にハンドルを切りいざ発進しようとしたら、ガリガリガリ。。。やっちゃいました。トヨタのディーラーの見積もりでは何と28万円!!信じられません!!近くの板金屋でも17万円!!あぁ悲しい。
自分をさらけ出すということ。これは何と難しいことであろうか。主の御前においてでさえ、自分を取り繕うとする我々。主に100%頼る、任せることは何て奥深く困難なことであろうか。やはり1%でも自分が取り繕っていたら、1%でも自分が握っていたら主の御前に出ているとは言えないのではないだろうか。我々が主の御前に作り出しているこの1%の淵は思った以上に深いのだ。しかしこの1%を手放せば、いとも簡単にこの深淵は渡ることができると実感する。それは信仰しかないということ。そして聖書が語っている信仰はただ一つの信仰だけ。それは、既に受けたと信じること。受けるだろうではなく、受けたということ。もうこれは事実、すでに起こってしまったことなのです!観念して神のなされた事実を受け入れるしか方法はないのだ。そしてその時、聖霊が働き、我々の前にすでに成されたことが実体化するのだ。
それはエライことです。
保険は入ってなかったんですね。
でもその事を主の所に持って行かれた
のであるならば 天的価値は生み出された。
だから相当分の元は取った筈ですよ。
(それにしても自分の失敗やハジ?を
堂々オープン出来るあなたに感心)
ダダダは必要でなかった。
大ハンマーで済んだのです。
それにしても 労働は楽しいものですね。
自分の車両もカバーした保険には入っていたのですが、自爆は適用外の保険だったのです。自爆もカバーした保険は結構高額だったのでケチってしましました。まぁ仕方ないことですね。こういうことは、たまにはあることです。しかし驚いたのは、トヨタと町工場の値段の格差です。プロテスタント的自由主義、資本主義が横行する世の中です。しかし僕もその中で活躍する張本人の一人です。
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