2008年7月28日月曜日

礼拝と訳された原語について

ある人によれば 
礼拝と訳された言葉は種々あると言います。
例えばそれは:奉仕する、おじぎする、仕える、求める、ひざまづく、
公の奉仕、告白的一致、等だそうです。

ですから
そもそもそれらの多くの言葉に一律に礼拝と言う訳語を付すのは
あまりにも乱暴過ぎ、大ざっぱ過ぎるのです。のみならず、
これら種々の言葉を全部、礼拝(英語ではワーシップやサービス)と言う
言葉に置き換え、更にその「礼拝」と言う言葉に
「欠席すれば天罰が下るよ」的、確定的でメインな集まり
と言うような概念をかぶせている背後には
ある策略の存在さえ感じざるを得ないのです。要するに 私達の頭に既に
刷り込まれている所の 日本語の聖書に出てくる「礼拝」=「あの日曜礼拝」
と言うワンパターンには大いに警戒しなければなりません。
従って私達は、礼拝と訳された元もとの言葉の意味を一つ一つ調べ、
それに基づき、更に文脈を考慮した上で、適切な解釈や訳語を施す
べきです。そうでないとあのウソつきにまんまと騙されるでしょう。

一例をあげれば
使徒行伝13の2は新改訳や岩波訳では
「彼ら(バルナバやサウロ等アンテオケ教会の主だった兄弟達)が主に
礼拝し、断食をしていると・・」と訳しています。この訳に接したキリスト者は
ああ バルナバ達も「あの礼拝」をしていたんだ、だから私も「あの礼拝」を
しなきゃ と直ちに反応するに違いありません。しかし ある兄弟によれば
この箇所のギリシャ語の意味は「公的奉仕」「主に仕え」が正しいそうです。
この「主に仕える」には極めて重要な意味が含まれているのであり、絶対に
それをあのサンデーモーニングサービス(礼拝)等と言う安っぽい儀式に
置き換えてはならないのです。この点に、
確かに一つの敵の巧妙な策略が隠れていることは明白です。

イエスは・・言われた。「何故、あなたがたも、自分達の言い伝えのために
神の戒めを犯すのですか。」「彼らが、私を拝んでも、むだなことである。」
(マタイ15の3、9)


ところが
かく言う怠け者のMr.Sugar はギリシャ語の素養が皆無であり、
恥ずかしながら英語力も不十分です。
皆さん、ドクターK さん、ルークさん、助けてください。

6 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

キリストの御霊、アンドリューマーレー著
第3章 御霊による礼拝
考察中です。

この章を考察するにあたり、貴兄と同様の疑問を私も持ちました。第1考を本日アップロードしましたので、ご参照にして下さい。さらに深く追求して行きたいと思います。

Mr.Sugar さんのコメント...

礼拝と訳されたギリシャ語を逐一調べ
上げる作業は今日極めて重要であると
確信しております。
それは直ちに「騙す者」の悪巧みを
日の光にさらすことになるでしょう。
とても嬉しいです。

mopoopoo さんのコメント...

そうですね。また、言葉には語感というものが必ず伴います。その単語を聞いたときに、連想するもの、わき上がってくる感情などです。詩人の人たちはこれらをうまく使い分けるのでしょうが、へたをすると聖書を誤って理解してしまいますね。
日本人が「礼拝」ときいて感じるものと、中国ではそういうのかわかりませんが
そうだとしたら中国人が「礼拝」ときいて感じるものは違うものがあるのでしょう。私自身、カナダに5年いましたが英語の「worship service」と日本語の「礼拝」の語感の差は大きいと思います。
いずれにしてもみことばから真理と啓示の霊によって啓示をいただくことが鍵でしょう。

Mr.Sugar さんのコメント...

有難うございます。
「御ことばから、真理と啓示の霊によって
啓示をいただくことが鍵」
正にその通りです。詰まるところ
啓示によって「見る」のでなければ「真理」
は単なる事実と違って「知る」ことはない
と思います。パウロの言う「知識」とは
そのような知識なのではないでしょうか。(テトス1の1等)
それから「語感」についての示唆を感謝
します。要するに人々は語感によって
左右されるのですね。

匿名 さんのコメント...

ちょうど語感に関係する本を読んでいました。ウィリアム・ベイトソンという学者がいて、彼は人間が持つ「感じ(feel)」を前提にした生物学を研究をしました。そしてその息子の文化人類学者でまた精神科学者のグレゴリー・ベイトソンが、さらにこの「感じ」とはどういうものかを追求しました。千夜千冊の松岡正剛さんの言葉をそのまま借りると次のようです。
「我々はいつも五感によって外界を知覚して、青空や樹木や友達の言葉を理解しているのですが、そこにはいつもちょっとずつ「認知のズレのようなこと」が起こっているんです。そのズレを少しずつ調整しようとしている。つまりフィードバック(修正作用)をかけようとしている。それが「感じ」というものではないかというんだね。」
この「感じ」が人それぞれ違うわけです。同じ言葉でさえ人それぞれ感じが異なるわけですから、一見同じ意味を持つ違う言葉からではかなり異なった感じを人間は持つのでしょうね。どうも人間はギャップを埋めようとするんですね。不思議ですね。

Mr.Sugar さんのコメント...

神とサタンにとって語感、イメージは極めて
重要です。たとえウソでも語感、イメージによって人はたやすく騙されます。

ですから私たちも
①正確な聖書の原典の訳出(この段階では日本語の美しさは犠牲にしてもよい)と
②その聖書の真理の真髄を今日の日本人に
的確、簡明にイメージさせる「単語の配置」(フレーズ)が必要であると思います。

それは「ことば」なるあの「お方」から
のみ来るのではないでしょうか。

「この方にいのちがあった。このいのちは
人の光であった。」(ヨハネ1の4)