今回の 山の目的は幾つかの工事です。その一つがトイレ。
使用後流す水がタンクにたまらないのです。だから手も洗えない。
ためしにクラシアンと言うプロに来てもらったら(見るだけで
8千円ですよ!)「これは根本的な故障です」と断言する。総支払い額を
聞いて びっくり仰天キモをつぶす。それで私は
「そうですか、じゃあいいです」と 立派な領収書をいただくことになる。
以来、その不便なトイレを使って来たのです。
その故障、 あのセージさんもなんとかトライしてくれたのですが・・・
そう言うわけであの12人のお客さんには大変不便をおかけしました。
と言う事でいよいよ今回の私の試みとなるのです。
それで私はどうしたのか、結局 数日前
「もうこれはしょうがないではないか」と、 その便器メーカーに電話をし
その故障部品をオーダーしたのでした。
ところがその晩のことです。
もう寝ようかなと その壊れたはずの部品を何ごころ無く
ゴソゴソいじって見ると カチッとある部分がはまったのです。
そして何故か もう一つの故障の原因がパッと頭にヒラメイた。
それで何と 問題は総て5分で解決、
トイレは全く元通りに回復したのでした。
これってどういうこと?
もう一つ 洗面所の蛇口を元管につなぐ技術が私にはなくて
せっかくの洗面所で顔が洗えない。これもとても困る。
キレイな「形だけあっても 使えない」というのはとても情けないのだ。
これも12人のお客さんには大変御不便をおかけしたのです。
その元管は例のカキオポリ、それは全く新しい技術の製品でとても
私の手には負えないと言う代物だったのです。
でも とにかく
何とかしなければと、遂に昨日重い腰を上げたのでした。
すると何と言うことでしょう。いろいろと別件が発生し半日はかかった
ものの 、まーどおってことなく 完全に解決してしまったのです。
しかしこれも私にとっては不思議と言えば実に不思議。
実感的には、山の如くそびえたっていた問題の総ては とても短時間の内に
どこかにふわふわーっとばかり消えて無くなってしまったのです。
とにかく「人に」すぐ頼ったり 自分には出来ないと思い込むのは
「総てにおいて」ダメですね。
何とか一歩自分で踏み出して見ること、 少なくもとにかく立ち上がること。
そうすれば何とかなる、何かが開けてくる。
これからのお客様、トイレと洗面、大丈夫使えます、お湯もでますよー。
↑
洗面台の鏡とライト、計3000円也。
上記の「12人の」千葉のMさんから、早速下に
優しいコメントが 寄せられました。 Mさん有難う。
また来てくれないかな!
2 件のコメント:
Sugarさん、千葉の増田です。トイレの水はバケツに水を入れて、その水を白い陶器の溜めの中に入れて使いましたので不便はありませんでした。ご心配なくです。さて、今週日曜日は家族4人で横浜のKFCに行ってきました。去年の11月sugarさんがKFCに来られた時以来ですので約7ヶ月ぶりの訪問でした。久しぶりにルークさんとemiさんにもお会いしました。主のみに満足し主のみを礼拝できるとは何という恵みでしょうか。黙示録22章17節を感謝します。『渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。』
我々は時々、あるいは常々、主に恩返しをしたい、あるいはしなければならないと思うことがあります。しかし恵みとは無代価のものです。我々と主の間には取引はありません。主が我々を愛さずにはおられないと同様に、我々も主を愛さずにはおられないのです。
ハレルヤ。
この小さな小屋に12人もの
色んな国の人々が来てくれた、
と言う感激が
いまだに私の中にあるのです。
今日も1人の人間とも全く会わない
1日が終わろうとしています。
でも
誰もいるはずのない下のリビングから
何やら賑やかなさざめきが聞こえて来る
ようなそんな気持ちが
フトする事があるのです。
きっとホンとに
私1人ではないのでしょうね。
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