2008年5月24日土曜日

その舞台(6)

ここでどうしても取り上げなければならない問題は
「キリスト教界」にも存在する支配、統制、秩序の問題です。
しかし私はここで支配、統制、秩序は不必要なものであると
言いたいのではありません。
とても大切なのはその支配力の起源、源、出所、源泉です。
極言すれば実のところ総ての問題は起源の問題に
帰するとさえ言えるのです。
当然エクレシアにもある種の支配、統制、秩序は表現されます。ところが
その源、出所は全く違うのです。エクレシアとは正に生命体であり、一見
支配とは無縁に見える「からだ」です。そしてその頭はキリストなのです。
エクレシアの支配はただひとえにこの頭・キリストから生ずるのです。

しかし私は今この問題に深入り出来ません。なぜなら
私の今のテーマは「その舞台」であるからです。この調子では
いつまでたっても「舞台」は私の話に現れて来ないでしょう。
ですから今この支配についての話は簡単な「箇条書き」を提示するだけに
留めたいと思います。この支配する力については機会があればいずれ
取り扱いたいと思います。それは極めて大切な問題であるからです。

(さて私は今 真にせん越ではありますが、皆様お一人お一人が
自らこれらの真理・問題を携え、時間を十分に用いて真剣に、そして
虚心に神の前に出られることを切望致すものです。
なぜなら神御自身があなたに正にダイレクトな啓示の光を
送られるのでなければ、あなたが神の深遠な真理を真に知ることは
決してあり得ないと思うからです。)

態系に存在する支配力:
・その力の本質は「死と虚偽」
・その王国の王はサタン、
・それは人の人への追従、宗教セットの固守を生む
・それは「キリスト教界」にこそ顕著に出現する
この「界」も、態系にあまた存在する「~界」(王国)の一つであるが
黙示録によれば最後の時代、これは他の主要な諸「界」と緊密な関係を
持つことになるが究極的には極めて悲惨な姿を全世界にさらすことになる。

体系に存在する支配力:
・その力の本質は「十字架」から生じた復活の命、
・その王国の王はキリスト
・キリストと結合しているキリスト者達の対等な「交わり」から自然に
現れるキリストの復活の命がキリストの体の中に頭からの支配を生み出す。
(そこにはいわゆる支配、被支配の意識はとても希薄でしょう。
いや、無いでしょう。それはどんな生命体を見ても容易に分かることです。
ぶどうの枝に被支配の意識などあるでしょうか。
腕に手の指に対する優越感などあり得るでしょうか。その意識の濃淡
こそ私達の宗教性のバロメーターになり得るかも知れません!)
・この天上の支配はただエクレシアにおいてだけ見られるものである。



*十字架とは態系の王サタンを起源とする死と虚偽が
イエスを木に閉じ込めたことです。
しかしハレルヤ、その背後には人知では計り知れない神の知恵が
存在したのです。その「サタンの閉じ込め」によってこそ体系・
今日のキリストの奥義的からだ・エクレシアが生み出されました。
しかしそれを「神のオセロゲーム」と呼ぶのは
少々軽薄過ぎるかも知れません。

*十字架、復活、交わり、教会等の日本語には余りに人の宗教観念が
入り込み過ぎており、それらの用語を用いる時、論ずる以前に既に巨大な
誤解や先入観の城壁が人々の思いを取り囲んでいる場合が多いのです。
従ってこれらの主要な真理が人々の中に真に浸透して行くことは
とても困難です。これは一つのとても悲しい現実です。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

神は園の中央にいのちの木と善悪の知識の木を植えられました。隅っこではなく中央にです。しかもいのちの木のみではなく、善悪の知識の木も植えたのです。神は善悪の知識の木の実は食べてはいけないと明快に命令されましたが、いのちの木の実に対しては食べろとも食べるなともおっしゃりませんでした。なぜなのでしょうか?人間に与えた自由意志の故なのでしょうか?だとすれば善悪の知識の実を食べるなという命令は神の最大限の慈悲と愛の何ものでもないと理解できます。神の思いはこの宇宙創造以前から人間に焦点があてられていたのでしょうね。Sugarさんがおっしゃるとおり、神は死に支配された人、つまり我々人間において神が死を、そしてこの世を支配したいのですね。主を賛美します。ハレルヤ。

匿名 さんのコメント...

すみません、コメント匿名になっていました。千葉のMです。久しぶりの山はいかがですか。僕らが行かせていただいた5月の初めは、まさに若葉が息吹きはじめた真っ只中でした。早朝の雲海、山つつじのつぼみが朝露に濡れていました。
さてコメントで自由意志と書きましたが、これは現代の人間がしているような自由平等を主張するために与えられたものではありませんね。神のすることは人間の想像をはるかに超えていますから、その真意は分かりませんね。我々の罪は神の御前と良心と肉の中にいます。罪を犯した人にとって、地獄はのろいよりもむしろ祝福であると確信するとニーは言っております。なぜなら地獄は単に刑罰の場所ではなく、それは永遠の逃れ場でもあるからです。何という神の慈悲でありましょう。神は私たちを救うために私たちの神の御前にある罪と良心の中にある罪と肉の中にある罪のすべてにおいて解決しなければなりません。ハレルヤ、神はなんと偉大なるお方でありましょう。神の方法はいつも人間の想像を超えています。
また我が家に遊びに来てください。それではまた。

Mr.Sugar さんのコメント...

「地獄は罪人の永遠の逃れの場」と言う
のは凄い見方ですね。

確かに死は「命なる神からの絶対的な隔絶」
ではありますが そこは彼にとっては最もふさわしい場でもあると言うこと
なのでしょう。
彼はそこにいなければ、即ち他の場所ではどうにもいたたまれないのです。その意味で
彼はその場所に至り、初めて納得が訪れるのでしょうね。もしもそのような彼が神のそばにでも置かれるとするならば それは地獄にもましてはるかに大きな苦痛と
恥辱の場になってしまうと言うことです。

しかし、実はその場所はその死さえも飲み込む第二の死の場所であり究極の究極的命からの隔絶の場です。何ということでしょう。彼はその程度までに神から切り離されると言う
恥辱と苦痛の中を納得の場とするとは!

それにひきかえ、
キリストが彼を信じる者に与えられたのは
完全にその2つの死から隔絶された復活の
彼御自身と言う「場所」であるとは!