2007年12月28日金曜日

「キリストの中の私」へ(1)

キリストと私との関係を見るとき
A「私の中のキリスト」と B「キリストの中の私」があります。
この二つは双方とも極めて大切な事実なのですが
私たちは どうも前者のみにこだわり過ぎる傾向があるように思われます。

確かにキリスト者のスタートは新生であり、それは「私の中のキリスト」
の開始です。これが無ければ何も無いわけで それはそれでよいのですが、
キリスト者は新しく生まれた時 同時にBをも知り初めなければならない
と言うとても大切な事実を見落としてしまっているようです。

B 無しでA のみを突き進むならば さまざまな困難に直面します。
そのようなキリスト者は「霊から始まった救いは 次に魂が造り変えられ 
将来は体にさえ完全な救いが及ぶ」とするワンパターン思考しか
持っていません。その結果、彼は常に自分を見つめ 自分を意識し 
何とか困難な環境の中でこの我が魂が造り変えられなければならない
と願うのです。もちろんこれは間違っているとは言えません。

しかし彼には極めて重要なB が欠落しており、
もしそのBの実際に徐々に入って行くという学びが着実になされなければ
「造り変え」などあるはずが無いことに気づいていないのです。

私自身の経験から そのようなキリスト者の傾向として 
次のような事柄があげられるかも知れません。
「自分は変化したか といつも自分を見つめので 常に一喜一憂し
自分の感覚に左右され 喜びと落ち込みの落差が激しい。
自分を見つめ過ぎるだけでなく 他のキリスト者をも観察し、
自分と比較し 時には過大にあるキリスト者を評価するか
或いはあるキリスト者達を区別してしまう(ここにも分派の根がある。)
人の前で「変化した私」を演じることさえあり得る(キリスト者を
振舞う。)要するに神の前でなく人の顔の前で生き行動する。
また時には自分は造り変えられ 少しは霊的な人間になったのかしらと
錯覚することさえあるかも知れない。」

この傾向の共通点は 
キリストと聖書を自分の前に置き、それを目標に
辛い環境の中で自分を神によって変えていただきたい 
という単一路線にあるのです。これはキリスト者の歩むべき道の総て
であるように見えますが、それのみでは全く不十分なのです。
確かに そこには必要不可欠なとても重要な認識が
決定的に欠けているのです。



 

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

今日1日のうちに2度、「キリストの中の私」経験がありました。
主が見ておられる私を思い始めると、それまでの陰鬱な気分とは全く異なる喜びのなかに瞬時に入れられました。
2度目が尾を引いていて、まだニヤニヤしています^^

これは効果があります(^^)

Mr.Sugar さんのコメント...

えっ本当ですか、嬉しいです。

信仰は言葉
によりますから、先ずどういうフレーズを
用いられたのかなー。
信仰には安息、そして味わいが続く
はずで それが
自然なニヤニヤに至ります。

とにかく主のまえで実際的に何回も
時間をとることが前提ですよね。

主の事実に留まる、これはイエスの
命令なのです。

emi さんのコメント...

今日は単純に、

「あなたの中で私は完全」

そして、

「私はあなた」

何とも嬉しいです。じわっと、ですね(^^)