2007年12月25日火曜日

山の2日目

何を書くでもなくブログに向かっています。
やはり山だと何か書く気分になるんですよ。
昨日、狙い通りまだ暗くなる前4時頃小屋に着くことが出来ました。

今山の昼下がり、何にも聞こえない冬の静けさ、やはり山はいいです。
これからでしょう、雪あり、大雪あり、吹雪あり 大風ありは。
それもまたよしとしないとね。(週末一つ来そうです)
これから階下に降りていつもの煮物を作ります。これを大量に作っておけば
ここの冬は小屋の中至る所冷蔵庫なので腐る心配もなく
数日そればっかりを食べて過ごせるのです。


ごった煮作りを終えて今4時前、
FMから「くるみ割り人形」が聞こえて来ます。
今日も人間との生の会話ゼロの日となりそうです。
山の中でブログに向かうのはそれとも「人恋しさ」なのかなー。
山を歩き出すとそれも変わってくるでしょうが・・


困ったことや、辛いことがある時
キリストの死をいただかないのはとても惜しいことに違いない。
もしもそれだけであれば それは「ただの苦労」で終わってしまう。
私たちは「キリストの包括的死」をもっと気楽に日常的に
「使用」していいのではないかと思います。

ここに2者があります。私と私の対象物です。
キリストの死を適用するのは
この両方でも良いし、何なら片方でも良いのです。
これがパウロが死についてあんなにも強調する理由では無いでしょうか。
キリストの十字架は絶対に有難ーい飾りもの等ではありません。
眺めて褒め称えていればよいと言うものでもありません。また
あなたの一世一代の大事業でもありません。
それは人々によって日常的に使用に供せられるための物であるはずです。

「私には、十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架に付けられ、
私も世界に対して十字架に付けられたのです。」
(ガラテヤ6の14)

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