2007年10月6日土曜日

ある仮説

ノア・・その日に巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、
水の水門が開かれた。・・ちょうどその同じ日に、ノアは・・一緒に箱舟に
はいった。・・水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、
それは、地から浮かび上がった。(創世記7の11、13、17)

わずか八人の人々が、この箱舟の中で水を通って救われたのです。
このことは今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。
(Ⅰペテロ3の20、21)

水は・・後を追って海に入ったパロの全軍勢の戦車と騎兵を覆った。
残された者は一人もなかった。・・イスラエルは海辺に死んでいる
エジプト人を見た。(出エジプト14の28、30)

キリスト・イエスの中へとバプテスマされた私たちはみな、その死の中へと
パプテスマされたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかる
バプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。・・もし私たちが
キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているなら、
必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ6の3、4、5)


この4箇所の聖句から分かること:


キリストの死は正に復活への門であること、また
キリストと人との結合の時、即ち人がキリストの中へと入らせられた時期は
キリストの死の時点であることです。
*バプテスマとは「何かの中に入らせられること、浸し込ませられること」
と考えれば以下の話は分かりやすいでしょう。

私たちは既にキリストと共に葬られたこと。更に神の創造の
中心である人・アダムのみならず、人が創造のフォーカスであった故に
神の創造の中の悪しき要素を含む総てはことごとく水葬されてしまっており、
それらは今神の動かし難い死の審判と執行の中に沈んでいること。

しかしこの大海原の死の判決とその執行(キリストの十字架の死)の中に
沈んでいるものは 決してその存在が消滅したわけではなく
今後それに続く、あの大判決に基づく追い討ち的な複数の執行、
遂には究極的な執行へともたらされなければならないことです。これが
神の敵とその追随者どもの今日の姿であり、またそれは
終局的な滅亡へ至らせられる神の敵の運命です。
その運命は段階的に進む 苦痛と恥辱の
増し加わりであり、終局的にはその苦痛と恥辱は
彼らのエンドレスの時間の中に存在することになるのです。

キリストの死において今 大洪水は全世界(時間と空間からなる全宇宙)
を覆っており、総ては死の水面下です。その中では
今生きている人も「死んだ人」も等しく死者です。
*この場合の「死んだ人」とは肉体と霊魂が分離した人。


この時空の中の全宇宙を覆った暗い死の水(この光景は
創世記1の2をも想起させないでしょうか)の上に浮かび上がったのは
唯一あの小さな一つの箱舟、つまり復活のイエス・キリストのみでした。
この意味する所は 神の目にとっては唯イエスのみが合格であり
他のいかなるものも 総て不合格であるということです。
6  
この復活のイエス・キリストこそが新しい世界、新しい創造、
新しい宇宙、新しい時空です。
この創造に比較するならば物質的古い創造など
その性質と地位から見て真に取るに足らないものであると
言わなければなりません。この物質的宇宙はキリストという宇宙の中に
存在する一つのある小さな範囲に過ぎないと言えるでしょう。
この新しい宇宙であるキリストの中・箱舟の中こそが
復活と永遠の中にある総てを超越した
制限の無い完全な安全地帯なのです。
当然 神の敵がこの領域に触れ得る筈がありません。
それは正に復活した人性と一つになられた神ご自身でさえあるのです。

しかし今 その復活のキリストという箱舟の中に入ろうとせず 
死の中に沈んでいるものは総て
いずれ更にひどい死、つまり更なる「命なる神からの究極的な隔絶」
の中へと段階的にもたらされて行きます。
その真の命からの絶対的な隔絶、死以上の死が第二の死であり、
火のバプテスマなのです。(マタイ3の11)

★ 
海はその中にいる死者を出し、死もハデスもその中にいる死者を出した。
・・それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。
これが第二の死である。(黙示録20の13、14)

また私は新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り
もはや海も無い。(黙示録21の1)

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