*自由について*
今回はどんな「お泊り会」になるのだろうか?
私にもカイモク見当がつきません。しかし それでいいのです。
規定しない、固定しない、枠を作らない、数えない、
また「今回は是非こんな方向に皆を持って行こう」とか、
そんな思いは誰も持たない方がよいのです。
なぜなら、それは「無限の」復活の能力を秘めた
キリストのみの権限に属するキリストのみの役目であるからです。
私達の役目はただそのキリストを妨害しないことだけです!
実はこの時代 キリストは私達の中でまだ
その全能のパワーを全開されることはありません。
彼は今 私達の妨害をたやすく受けられるのです。
なぜなら今は「人の自由の時代」であるからです。
しかしこの自由な時代 神が私達の為に配剤される環境の中
私達が自らに十字架を適用し 敢えて不自由の中に自分をおく時
初めて彼は私達の中で 実に繊細に行動を開始されるのです。
この繊細なお方に対して必要なのは やはり
私の繊細な協力です。そしてその私の繊細な協力は
キリストの死をわが身に頂くことから初めて生ずるのです。
とは言え
私達はやはり 別の意味で「自由」であるべきです。
不自然な、あるフリなど決してしてはなりません。
あなたはあなたらしく無邪気でなければならないのです。
私達は自由に笑い、泣き、闊達に喜ぶべきです。
なぜなら 霊的なフリをする時 私はたちまち「人間でなくなる」
からです!そのような時「ありのままの人間に過ぎない私を通して
神・人であるイエスが現れ出られる」可能性は全く無くなります。
宗教に人が真の魅力を感じないのはそのためです。
もとより「人間性を通して神性を表現する」
そのことこそ 究極的とも言える神の願いであるのです。
よくあることですが、「愛は実行で現わされなばならない」などと言う
教えと号令の中 歯を食いしばって何とか作り出した
ニュウワとホホエミなど 神が評価されることは決してありませんし、
実は人でさえ そこにある 引きつったウソっぽさを
たちまち感知してしまうのです。
実はこのことが 世の人に対するキリスト者の証の為に
今日最大級の妨害となっていることは明らかです。
私が人間であること、自由であること、決して演技などしないこと
これらは「イエスの真に魅力ある人間性」が
私の人間性を通して表現される為に 絶対に不可欠なことなのです。
私たちは十字架の適用の中で
全く自然で自由な人間でなければならないのです。
★
(下は四角池orハルさん池:鯉が沢山泳いでいる。
ハルさん「好きなだけ取って食べろ」と・・)
2 件のコメント:
「わたしが人間であること、自由であること、演技しないこと。」このことばに、ほっとするものを感じた。またこれを実践することは、ほんとの自分を世間にさらすことになるんだろうなーと心がキュとなった。が、わたしは何をかっこつけたいの?ポーとしてばかがつくほうだけど。
しかしキリストのもとにいるものは、彼の導きに従うとき、つつがなく、過ごしていけるのではないかというおもいもわいてきた。ハレルヤ!
そんな時 ひろこさんから キリストがあらわされるのではないでしょうか。
こちらは、今日ひどい雨。
タイル貼り、今最後の段階です。
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