2007年7月20日金曜日

ある実験

今私 一つの実験に入ろうとしております。
一寸分かりにくいかなと思いますが 聞いて下さいますか?
それはこうです:
最近私はあるお方に ある要求を出した。すると先方は
だったらこうして欲しいと言われた。仕方がないので私は今
その要求を飲もうとしているのです。(多少辛いんですでどね)
これは 私がもしその要求に応えた場合、今度は
私のそもそもの要求が本当に先方に実現してもらえるのだろうか、
と言う実験なのです。
ハイ、先方、ある方とはキリストです。

その先方の要求とは何か、それは一寸ここでは書けません。
もし書けば 皆さんは私の認識にあきれ果て
「気の毒にミスターシュガーもいよいよおかしくなってしまったのか」と
大いに嘆かれるかも知れないから。
その私への要求を具体的に言うならば 一見あまりにも非常識に見え 
殆ど不合理にさえ見える そのようなたぐいのものだから。

しかし皆さん この新約の時代に 総てのキリスト者に
いつでも当てはまる 画一的な行動規範の様なものは無いのですよ。
だから私だけに その様な要求があっても一向に構わないのです。
「神は聖書から 道徳律や徳目を人に与えることによって、
人々に均一な善を要求している」と人々はトンでもない誤解をしている。
それは全くの見当違いなのだ。神は生ける者の神なのだから。

考えても見てください。
あの最初の人アダムは善悪を知らなかったのですよ。
このことは実に驚くべきことではないでしょうか。
彼には 私達が今一時も離れられない観念:
私は今どうするべきか、どうするのが正しいのか、
そしてどのようにするべきではないのか、と言う様な
自分独自の世界さえ無かったのです。
少なくも その様な観念が彼の命となり
彼の主要な生きる力になることは決してなかったのです。
信じられますか?
私達にとっては その様な彼の存在自体が既に相当な難問なのです。
私達現代人に 善悪の判断を知らない、いや善悪とは何のことかさえ
感じられない、しかも同時に健全で無垢なる大の男を想像するのは
極めて難しい事なのです。

しかしながら 事実としてアダムはそういう人間だった。
ただ彼は善悪の外にいて、ただ神に完全依存して生きていたのです。
彼は 生きることの総てを神への依存によっていた。
彼に必要なのは神ご自身であり、善ではなかった。
彼は本当に善悪を知らなかったのです。

無論 今私達にアダムの様に生きなさいと言われたとしても
それは とても困難であると言わざるを得ないでしょう。多少ならまだしも
生きることの「総て」を神に依存するなんてまさか と私達は思うし 
たとえその生き方に賛同する人がいるとしても 
その人が 本当に神に依存して生きるのはやはり相当難しいのです。

何故? それは 私達は
アダムが「善悪の判断を自力でするようになってから」の
子孫だからです。だから私達は今 いやおうなしに 遺伝的に 
神へ依存することよりも 善悪を自分で判断し、
本能的に何の疑うことも無く自然に
自己の力を日夜振り絞って生きているのです。

しかし、この生き方にはご承知の如く汗と涙が 常時付きまとい
人はそれぞれ 自己製や自家製 或いは自国製の善や宗教を掲げて
他と戦わざるを得ない、いや自分とも戦うことになるのです。
それが今日のキリスト教を含む宗教、道徳、政治、教育
そして世の中全般の姿なのです。
その行程総てに伴うのは常に死の臭いであり、
究極的には絶対的死が待っている。
これは本当に悲劇だ。


さて
実はあの「先方の要求」の背後には 正しさや善への要求は全くなく
本当の所 私に対する「神への全面的依存」の要求が隠れている。
ここで先方は この要求の向こうにあるものは 更に高きところ: 
ある安らぎと能力であると教えようとしておられる。
そう 有難いことに彼は その要求に対する従順の結果与えられるものは 
「人の血と肉の力を全く不要とする静かな深いパワー」であると
苦労して私に教えようとしておられるのだ。
私はこれからの日々 この関門を真に通過して行けるのであろうか!

キリスト者とは本来
自己の努力と汗を全く放棄した所に確かに存在するところの 
私のものでない高貴な能力を ふんだんに用いる事が出来る人々である。
自分からではない ある超越した能力を使用させて頂く人々なのである。
それはアダムも知らなかった「あの命の木の実」を
先ずは実際に食する事から 生ずる能力であることは確かではあるが、
問題は更に深いようである。いずれにしろ
そんな能力がもし現に存在するのであるならば
それを知らずにおられようか!と あなたは思いませんか。
(一寸わき道に逸れかけましたね)

基本に戻ろう。
人の目には 総てのことの最高峰とさえ見える「善悪を知ること」ではない、
必要なのは命、神の命である。
命は美しい、命にこそ力があり そして命こそ永遠である。
そして真の命の木とは 神ご自身であり、そしてその命の木の実とは
人が食し得る神のかたち イエスキリストに他ならないのである。

これが今私に課せられている実験なのです。
さてさて、これから私はどんなことになるのやら。

本日は長らくご静聴 有難うございました。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

初めまして アンナと申します。

以前からこっそり覗かせていただいております。

6月に >今日 キリストの十字架に耐えられないものは 将来の火のテストにも耐えることはない。キリスト者の「正しさ」がキリストに取って代わるのは実に た易いのである。<
と おっしゃておられましたが 本当にアーメンだと 思いました。この手がキリスト教界にはびこっていますから。
そして 今日の >人の目には 総てのことの最高峰とさえ見える「善悪を知ること」ではない 必要なのは命 神の命である。そして真の命の木とは 神ご自身であり 命の木の実とはイエスキリストに他ならない< アーメンです。命を無視して 機能面だけで 生きている多くのキリスト教徒 考えさせられます。

これからも 楽しみにしております。 

Mr.Sugar さんのコメント...

有難うございます。あまりにも風変わりな私の物言い(本当はあたり前のことと思っているのですが・・)
故に いつもどれだけの人が分かってくれるのかなーと思いながら書いていた所だったので 今日はとても励まされました。ちょうど主の私への ある介入があった直後でしたのでなお更です。今後ともよろしくお願い致します。