2012年2月9日木曜日

二つの事実

・・・言われる通りです。

神は最後のアダムの肉において、旧創造の総てに
死刑を執行されただけでなく、それを呪われました。

だからイエスは
「ユダヤ人の石打ち刑」で死ぬことは出来ませんでした。
なぜなら、神の心は旧創造を、死刑に処すだけでは満足される
ことはなく、その上旧創造をとことん呪う必要があったからです。
だから旧創造の一切は神から見て、単に終わらされただけでなく
死んだ忌まわしいヘビのように更に呪われ、汚れたものとして
捨て去られねばならなかったのです。イエスにおける十字架とは
何たる死刑であったことでしょう。

(この事実を私達は、
自分自身と、自分そのものと、自分に
属する一切の旧創造に一つ一つ適用するべきです。)

当然のことながら、イエスは神によって呪われたくはありません
でした。にもかかわらず「ただみこころであるが故に」十字架に
向かわれたイエスの苦悩は、実にその点にあった筈です。
しかし彼は自分を否み、十字架に向かわれました。
それはひとえに父へ従順と私たちへの愛の故でした。
「彼は・・死にまで従い、実に十字架の死にまでも
従順になられた。」(ピリピ2の8)

以上のことは神の側では、
永遠において、キリストの中で、また法的に
完成しております。

今、時空の中にいる私達がするべきことは
苦悩するイエスとは異なり、ただ、
上の事実を信じ「安息する」ことです。
何と幸いなことでしょう。
これは日に何回でもするべきです。


もう一つの真理があります。それは
信仰・「信じること」とは、知的操作などではなく、
本質上それは霊的なものであり、その中には
永遠の性質がある、と言うことです。

だから、2千年前の
「永遠の性質を持つ十字架の事実」は
それと同質の
「信仰という霊的、永遠的なもの」と結合し
(或はそれに乗って)2千年後の私達の現実の中に
まるで宅急便のように届けられ得る、という驚くべき事実です。
何故ならそれはキリストイエス「の」信仰であるからです。
(ガラテヤ2の16その他、原文)

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