私は総てを「意識をもって主体的に」
行動するべきである。
だから私・私の意志は、自分の魂と体を
意識的に用い、使用し、機能させなければならない。
「半無意識的に、何となくやる」はよくない。
「何か」が飛来して来て、知らぬ間に、
私の魂と体を動かすのを待つ、期待する、
のはよくない。
その内に、フワッと「神秘的、超自然的な力」に
乗っかりたい、とあこがれるのはよくない。
今日、このような考えが、キリスト者の間で
「霊的」と思われているかも知れないが
それは聖書の真理とはほど遠いものである。
*
神は人と同労したい、人と共に働きたい、のであって
神ご自身が、人に
・取って代わって、
・成り代わって
・置き換わって
・人の皮をかぶって
行動されること等ない。
神は断じて人をアヤツり人形にしたいのではない。
人は断固「神のみこころ」のために、
自ら立ち上がらねばならない。
確かに神と聖霊は、人がみこころの為に立ち上がるように、
人に対して全力で働きかけはするが、最終的に
神が人の中にもぐりこんで、人の代わりに、
人の知らない間に、立ち上がられる、
ということはない。
実際の所、そのように働きかけるのは、聖霊ではなく
巧みに人の心にしのび込むヘビ・悪霊そのものである
ことを私達は知るべきである。
これが創世記3章の警告であり
かように、人の自由意志は極めて尊い。
*
「では、シッカリと立ちなさい」パウロ(エペソ6の14)
2 件のコメント:
「では、シッカリと立ちなさい」
↑
ズンっと心に響きますね。
さっき、
「主よ、シッカリと歯をみがきます。」
と言って
「立って」(これは霊的な意味で)
みがいたら結構よかったです。
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