私達は罪人ですから 多くの罪の恥(はじ)を
隠(かく)し持っています。 しかし神は彼の義の故に
その私達の総ての罪の恥に対する刑罰 (けいばつ)として
ある日 総ての御使いの前において私達の恥を
全部さらし出さなければなりません。
しかし神は何とその「恥じのさらし」を2千年前に
あのイエスの身の上で執行(しっこう)されたのです。
イエスの十字架の上での苦しみは種々ありますが
その一つがその「恥にまみれること」でした。
当時 十字架刑(けい)は 逃亡(とうぼう)した
奴隷(どれい)に対して行われたものでした。
それは最低の刑罰(けいばつ)であり、最も苦しく
むごい刑罰でした。 それは一つに その奴隷の恥を太陽の下に
すえ、人類の歴史のど真ん中に高く掲(かか)げ「あらわに」し
「さらしつくす」ものだったのです。
多分 イエスはピラトとヘロデ、兵士(へいし)達の前、
そしてあの十字架上で殆ど裸(はだか)であったことでしょう。
それはあまりにヒドイので、はるか後世に書かれた
「イエスの絵」には 小さな腰布(こしぬの)が
描(えがか)かれています。
ところが本当のところ
私達こそが恥じにまみれた罪人ではないでしょうか。しかし
当然神の子 イエスには、ただの一つの小さな恥、微小な恥の
影さえもありませんでした。
私達は更に彼はあの時
その羞恥(しゅうち)と屈辱(くつじょく) の感覚を麻痺(まひ)
させようとする飲み物を断固拒絶されたことを知っています。
彼は死の直前まで その恥じの感覚を感じ尽くされ、その屈辱の
盃(さかずき)を完全に飲み干(ほ)されたのです。
イエスの肉体の上において恥が全世界にさらされた時に
神の目に映ったその恥とは 実は 私達の恥でした。
従って「私達の裸の罪の恥」への神の罰(ばつ)は
あの時に既にイエスにあって終了したのです。
「私達の罪の恥」への刑罰は
イエスの中であの日完成されたのです。
*
それはひとえに
全く罪のないお方が
「恥をもいとわないで」
十字架を忍ばれた故です。
(ヘブル12の2)
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