2010年7月26日月曜日

正常な交わり(礼拝)

これは聞いた話ですが あるところで
①自然に無理なく始まった(ヨハネ4の4~6)
少数の兄弟姉妹の交わりが とうとう
何とえんえん7時間に及んだそうです!
これは異常なのでしょうか。イナ むしろそれは
その交わりが正常であったことを示していると
私は考えます。

②まずその開始にムリがありません。そして次に
真の礼拝には確かに「何か内に燃えるもの」がある筈です。
だから兄弟姉妹は それを中途半端に終えることにはむしろ
かなりの難しさを覚えるのです。(この現象は
ルカ24の32にもアザやかに示されています。)

③更にそこには
「この世(物質)の話」は殆ど現われません。
「物質の水の話」を持ち出すとしても それは、そこから
「真の永遠の水の話」を誘導(ゆうどう)するためです。
(ヨハネ4の7)
そして永遠の水の話は遂に「実際の永遠の水」を
その場から湧(わ)き出させ 流れ出させるために
他なりません。(そうでなかったら意味がない)

そのようにして
物質の水の話が永遠の水の話に置き換(か)わり
ついには本物の永遠の水の潤いそのものが
④私の「手の中にぎっていたもの」(水がめ)を
自然に捨てさせる結果とさえなるのです。(4の28)

⑤更にもしかして
この命の水の流れ出は 遠く街にいる人々のカワキをも
潤してしまうことに繋(つな)がるのかも知れません。
(4の42)

⑥このような礼拝は 
しばしばこの世の食事を忘れさせ、この交わりこそが
「真の食べ物」であることを知らせてくれます。(4の34)
その結果キリスト者は容易に「真のもの」と「単なる絵」
との相違を体感することになります。そのようにして初めて
私達は真に「霊的な認識」を得るのです。
霊的な認識とは要するに「本物を知る」ことに他なりません。

⑦最後にこの交わりは
神の「みこころの進行」と深い関係がある
と言わなければならないでしょう。(4の34)
このような礼拝は 私たちが
・神の御心とは何であるのか、そして
・御心と私との密接な関係を知り 更に
・私が実際に御心の中に自分の身を置く時に
初めて 無理なく発生する現象です。


更に付け加えるならば
ヨハネ4章において主イエスは
「この世の礼拝、宗教の中の礼拝」に関する人(女)の主張を
「真の礼拝」の話へと変え、遂には
彼女と人々を「真の礼拝そのもの」の中へと
導かれたことをも見ることが出来ます。

確かに 真の礼拝のチャンスは
「人間生活の自然な営み」の中に無数に隠れている 
と言えるでしょう。

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