2010年7月14日水曜日

ある会話

昨日、ある場所で一人
強く主のご臨在を感じました。
しばらくの間
大きな幸福感と喜びに浸(ひた)されました。
しかし間もなく 興奮はスーッと消えました。
とても不思議な経験でした。


よき証しを感謝します。
そのスウーッと消えた方の経験が 
すばらしいと思いました。

まるで2000年前 主の復活後の 
弟子たちの生き生きした経験を
直接あなたから聞くような思いです。

幸福感や臨在感を
与えるのも 取り去るのも主です。
どうであれ 
事実として主は「常に」臨在され、そしてまた
全く信頼にたるお方であるという真理は
微動(びどう)だにしない、
ということですね。


マタイによる福音書は
「見よ、私は世の終わるまで、
いつもあなた方と共にいる。」
(マタイ28の20)
というイエスの言葉で完結しており、
その後には 何も書かれておりません。
即ち
この福音書の最後においては
(実はヨハネもそうですが・・)当然あるべきはずの
「主は天に昇って行かれた」という記述はないのです。
ですから これは確かに 
無限なキリストにおける「事実の一面」です。
従って彼は
(当然 復活のかたちにおいてですが)
地上にいる私たちと 
今も共におられることは確実です。

7 件のコメント:

ヒゲMac(BinkyBlue) さんのコメント...

ご返事ありがとうございます。

こちらへは、私のネットのお友達で「あかしや番頭さん」のリンクからたまたま寄らせていただいた次第なのです。

いきなりなコメント内容なので恐縮でしたが、やはり私なりの神さんから教えていただいたものを残しておこうと思いまして記させていただきました。(>.<)

主は常に側にいる、これは仰る通りです。 今も側にいて、その栄光と御手を差し伸べてくださっているのが感じられます。

願わくばその姿と声など聴きたくてしかたない私なのですが、それだけや約束を決してやぶらない主ですから、復活のその日までは見せては下さらないようです。 しかし、常にいるのだと言う事を毎日毎日伝えてきてくれてはいるようです。

そして、また一番嬉しいことが「決して見捨てないでいてくださっている」事でした。

「与えるのも取り去るのも」と記されていて、それは確かにあるのだと言う事もわかります。

 欲するものをこの目で確認させてくれている時に、あるひそれがすぐ目の前にあるのに気が付かず、その目の前のものは数十分も実は私の前にあった・・一緒に動いていたのに・・・

 この時に神さんのイエスの言葉がよぎります「そのものを盲目にしてしまうこともできる」と・・・・

 怖いものです・・・これが盲目にされてしまう一つの例なんだと感じました。 そしてその時それが見えたときの私はとてもそれに感謝いたしました。

 目に見えることだけでなく、聞き、感じ、直感することも・・・それら全てを盲目にされてしまうことすらある主です。 そうされないようにしたいものですが、今の我々それぞれの意識において必要ないものはまったく気が付かせてもらえないものが山ほどあるようです。 なので神さんのその事を知って踏まえていると、恐れることはないともいえるのではないかと。

 ここの記したもの、これらは考えながら記していません、すべてその場で溢れるぐらいにその内容が出てきて記しております。 考えると自分の考えが入りますが、考える前にどんどん出てくる・・・実体験での事なのでそうなのかもですが、お解かりになるのならば、どう答えるか考えなくても良い、それらは与えられ・・・・と言うあの事が出てきます。

 しかし、これらを素直に書きますと、多くの人には「お前だけが特別と思うな、お前だけが神さんに見てもらっているのではない・・」といった感じが、伝えた相手から感じるのです。

 実際に聖霊によるというこれらの事は自分自身とても嬉しいことで、低俗な私はちょっと自慢している所もあります、直接神さんの声を聴いたとかそれらはまったくありませんが(でも一度だけはっきりと声を聴いた事はありますがそれが神さんであるかはわかりません) しかし聖霊にまかせるというこの行為は確かにあると感じました。

 大体にしてこれらで出てくるお話は、その聞いてくださっている人に深く伝えるものがあるようです。 そして話した後で自分自身「よく、あそこまであれらの事が出てきたものだ」と感心すらしてしまっています。

 なぜ、ここでこんなに長々と書いているか・・それはよくわかりませんが、何か伝えたいことがあるのかもしれません・・・・それは、多くのクリスチャンが誤解している事があって、それの証を具体的にさせられて、そうか、我々はまだまだ囚われているのかと教えてもらった事なのです。

 でも、神さんのアガペノ愛に本格的に触れだすと、多くの人は(特にクリスチャンのかたがた)かなり困惑するかもしれないと感じました。 人知を超えていすぎること、人間の常識と良識では計れない、また認められないことさへ多く存在していること・・・

 ですから、ひとつの例えではイエスがいった「先のものが後になり、後のものが先になる」この世界感です。 人間のモノサシでは計れない世界観がそこにあること・・・これも、ある実体験をさせられて、神の考えの大きさに触れさせられました。

 神様が分かってきだすと、それは繰り返しとなりますが、普通の人では納得いかない事になってきます。 私は多くの人がもっとそれを知ってもらうと、世の中の紛争や人間のあいだにある隔たりがなくなると感じます。

 ここでは、それが言えませんすみません(>.<) しかし、ますます神さんあなたはすごすぎです!となってきています。

 長文乱文すみませんでした。

Internet business at home automated system さんのコメント...
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Mr.Sugar さんのコメント...

アカシヤさんですか。懐かしい。

「私なりの神さんから教えていただいた
もの」
↑それが大切です。人からでなく、
神から であるべきです。

「主は今も側にいて、その栄光と御手を
差し伸べてくださっているのが
感じられます。」
↑すばらしいことです。
きっと今 主はあなたを導いておられる
のでしょう。
ただ主に従ってくださいますように。

原則は単純です。要は 主とあなたとの
付き合いなのです。
主は誠実です。だから私も率直に正直に
彼とお付き合いをすれば いいのだと
思います。彼は義なる神ではありますが 
特にこの時代 彼の本質は愛です。
彼はあなたに「最高の永遠の福祉」を
与えたい ことは確実です。

私達は 神によって 今現在感じさせられていることに対して
誠実であれば いいと思います。無理に自分の心の奥底まで見つめ 「泥さらえ」
など する必要はありません。
(これについて7/7に書いた積りです。)
だから「すべてその場で溢れるぐらいに 
その内容が出てきて」
でいいと思います。

「お前だけが神さんに見てもらっている
のではない・・」
しかし ヨハネも 「私は最も主によって
愛された者である」という感覚を
持っていました。だからそれでいいのです。主の愛は無限であり、
一面明らかに 個人的です。

聖霊はあなたの霊の中で 静かに
語られます。だから私達は 
自分の魂と肉体の騒ぎを 常に平静に
保つべきです。
人の霊とは 人の最も奥底にある 最も
奥深い「私」です。
それは人の意識よりも 深い所に存在して
います。
(魂は人の思い、感情、意志です。
これらはスグに騒ぎ出しますから。)

ですから、偶然であっても 人の霊に
おいて私達が聖霊に従うとき、
「私でない不思議」が現われるのです。

とにかく実際の主は 私たちが普通 
見聞きするキリスト者達の常識とは相当 
かけ離れていることは事実です。
あなたが 真にその生ける神と共に
歩むとき 多くの誤解に直面するでしょう。しかし 必ず ついに彼らも分かる日が
来ます。
ですから あなたはただ 神に従う
ことが 彼らを愛し 彼らを
助けることにつながるのです。
確かに神はあなたの味方です。

ヒゲMac(BinkyBlue) さんのコメント...

7/7エントリの記事を拝見し、おっしゃるとおりだと思います。

私もこうして自分が書いて知らせたいことも、実はかなりの主観と押し付けになっていないかと、それが一番怖い面であると感じていました。

私の所にこの地区を廻られるエホバさんがたまに来られてお話をします。 モルモンさんにも顔を出したこともありました、、、ただ、どれもが何か自分には押し付けられているといった感じがしてならなかったのですが、実際キリストに出会ってとても気が楽になり、イエスが言っていた(聖書の通りには書けませんが)あなたのその重荷を担いで上げようと言っていたのが浮かびました。

多くの布教活動している方々は知らず知らずのうちに自分の想いが強くなって他者に迫っているのを感じます。

神は存在するがどの宗教にも入る気がなかった私ですが、笑い話にもなるぐらいに、それだけ拒絶していた宗教なのに洗礼を受けたのは「無料だから」「おまもり代わりに洗礼うけて帰ったら?」「べつにもうここへ礼拝に来なくてもいいし」「聖書は絶対読まないとダメってこともないから」とこれだけの事を友達から聞いて「じゃぁ、ただならいっか!」となってほんと軽い気持ちでお守りを200円ぐらいで買って変える感じで受けたのがスタートでした。(爆)

しかし、そこから今までのジグソーのピースがどんどんハマっていき、科学的にも物理的にも神さんの業がわかってきて楽しんでいるといった具合です。

そうしていくうちに、私は旧約で言えば罪にはっきりさせられていることがありますが、神さんはその事もすべて願いを叶えてくださり見事にその栄光をさずけてくださいました。 この事件があってからです、聖書ではダメとなっているのにそれを叶える神さんって何?なぜ?と・・・

他のクリスチャンから言えば、それは神の業ではなくほかの霊やサタンとか言われそうですが、その時に浮かんだのがパリサイ人がイエスを悪魔の頭だといっていたところです、なのでやはりそうではないなと感じ、またそれらはいかにそのものを神から遠ざけるかと言う働きをすると私の洗礼を授けてくださったかたが仰られていたので、ますます神さんに傾倒する自分は間違ってはないんだろうなぁとそれを信じてい今に至るといった具合です。

ほんとうはその自分に起きた事件を話さないと、ここでこんな事を書いてもなんにもならないと思うのですが、あまりにプライベートなことなのでちょっと書けないのが残念ですが、その事によって神さんは聖人にならないと神の道にいけないのだとは言っていない事に気が付いた・・・といいますか・・・そのまんまの自分でいいんだと言う事に気が付かせてもらえたといいますか・・・

やはり奥歯に何かが詰まったような書き方ですね、すみません・・・これを読んでくださっている中で、何か罪の意識とかモーセの十戒にある罪とされることで、その自分の罪を白くしないとダメなんだぁーと感じている人がいたら、それはそうでないよ・・・と言ったかったしだいです。

でもこれは、カソリックの人には特にご法度な事かもしれないのですが、モーセに囚われず、新約でイエスが言っていた事と行いを改めて素直に受け入れると、ブドウ酒の皮袋の例えでもありますが、イエスを通しての新たな神さんとの契約は、旧約とは全く違うレベルにあることを実感したのでした。

 しかし、まだまだ世界的にも旧約主体でイエスを信仰しているのが現実なのですが・・・なぜなのか・・・そこらの答えをだすと、ものすごくカソリック系の人からパッシングを浴びそうで怖いのでした。

Mr.Sugar さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
Mr.Sugar さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
Mr.Sugar さんのコメント...

真実なメントを感謝します。

・無料だから・・(信じた)
・実際キリストに出会って とても
気が楽になり、
「あなたのその重荷を担いで上げよう」と
言っていたのが浮かびました。・・
・今までのジグソーのピースがどんどん
ハマっていき、科学的にも物理的にも
神さんの業がわかってきて
楽しんでいる といった具合です。
・そのまんまの自分でいいんだと言う事に
気が付かせてもらえた・・
・それは神の業ではなくほかの霊や
サタンとか言われそうですが、その時に
浮かんだのが・・

こうやってあなたの言葉を並べて見ると
聖霊ご自身が あなたが信じるときから 
一歩一歩確実に導き あなたの目を開いて
来られたことが分かります。それはまるで
ヨハネによる福音書9章に出てくる 
あの目をイエスに明けてもらった人
のようです。
どうか続けて ただイエスのみに従って
行かれますように。(彼はイエスと共に
当時の宗教的観念と激しく戦いました)


・旧約で言えば罪にはっきりさせられている
ことがありますが、神さんはその事もすべて
願いを叶えてくださり見事にその栄光を
さずけてくださいました。 
この事件があってからです、聖書ではダメ
となっているのに
それを叶える神さんって何?なぜ?と・・・
・世界的にも旧約主体でイエスを
信仰しているのが現実なのですが・・・
なぜなのか
・旧約とは全く違うレベルにあることを
実感したのでした。

そうです。現在神は 
旧約とは全く違うレベルで神の民を
導いておられます。この点を間違えると
キリスト者は 不要な苦労をたくさん
することになるでしょう。

現在の神の導きというのは要するに 
①旧約においては良しとされたものでさえ、
総てのものを 神は最後のアダム 
イエスの肉の中で 十字架に釘付け 
神は何と それらを総て呪われたことです!

そして
②復活したキリスト ただ彼の中のみに 
「一切の価値、よきもの」を封じ込めて
しまったことです。

その一つの例証としては 
イエスの弟子でさえ モーセとエリヤ
(即ち旧約)のために小屋を建てようと
したのに対し 神はただ「これに聞け!」と
イエスのみを指し示したことを
見ても分かります。

だから復活したキリストのみが
それ以来の 今現在の神の切実な 
御思い、心なのです。

従ってその時(キリストの十字架と復活)
以来 神の民に対して 神が唯一与えた
標準、目当てはイエス オンリーです。

即ちイエスの中に総てがあるのであり、
もしも今日 私たちがイエスの外に
何か「よき事」を求めるならば、それは 
神の強いねたみを
引き起こすことになるでしょう。