2010年7月11日日曜日

パン裂き

感謝です。昨日 
ある小さな家で行われた「パン裂き」にあずかる
ことが出来ました。

さて今日 
あのキリストの「物質の体」は遥(はる)か御座にあり、
もはや地上にはありません。
ですから当然 私達はイエスの肉体に 今この手で
触れることは絶対に不可能です。

しかし敢えて言えば
キリストの体の物質の面が今地上に全くない、
わけでもないのです。
それは現に 今日私たちの間に イエスが設立された
「パン裂き」における「物質のパンとぶどう酒」が
存在するからです。イエス自身が「これは私の体である」
とまで言われた深い意味を私達は
軽視(けいし)するべきではありません。

私達はまず 時間をかけ
テーブルの上に置かれた「静かで物言わぬ」
あのパンとぶどう酒をジッと見つめるべきです。
そのパンの焦げめの微妙さに至るまで!

それから おもむろに一人一人が自分の指で
そのパンに触れ、砕(くだき)き その香りをかぎ 
舌で味わうのです。

そのようにする時、私達は確かに
私たちの五感を通して啓示される驚くべきイエスの
さまざまな面を実感することでしょう。

聖書さえ持っていなかった初代の兄弟姉妹が
所有していたものはゴクわずかでした。その中に この
パンとぶどう酒、そして互いの交わりがあったのです。

(昨日ある兄弟がくしくも言われたように)
神はそのような、日常生活のレベルで行われた
単純な集まりを通して イエスキリストの
十字架と復活 昇天の意味を 深く深く
兄弟姉妹の霊に啓示されたであろうことは
疑いの余地がありません。

2 件のコメント:

ヒゲMac(BinkyBlue) さんのコメント...

はじめまして、そして生意気な事をいってしまうのですがすみません。(>.<)

パンとブドウ酒、そうですねぇそれは正解だと思います。 そして私は新約のイエスの行いと説教を一応全て読んで、感じ悟った事で言いますと、 それ以外にもすべてイエスと父なる神がいると言う事でした。

マナの天からのパン、そして私がそのパンであると言っているシーンでも、当時の時代背景を照らし合わせると、食べること、糧、生きていくために必要なもの・・・これらがある意味集約されていると感じられるのです。

パンは当時では生きる糧、とても必要不可欠な「物」、しかし、それにも増してイエスはその我々の世界感にあるパンと匹敵する以上のもの「命」それも魂の・・また、イエスは現時点のこの世界での生きていくためにも素晴らしい役割を果たし我々の命を救う「パン」でもあると・・・・

イエスはあくまでも天国の奥義をストレートにはなかなか言われないようで、時に解き明かしをして教えていた所もありましたが、やはり弟子達もまだまだなようでしたから、その目を開くためにも、例えを多くいれて話されているのが感じられました。

パンとブドウ酒もその中にもちろん入っていると感じられ、今我々のまわりのもの全てがそうでもあると私は神さんから伝えてきてもらっているような気がしてなりません。 ですから、その小さな周りのものにも感謝のきもち「ありがとう」などを送られると、とても良い反応がきます。 すべてがパンとブドウ酒であると・・・

それらに感謝、ありがとうを伝えると自分の中でも良い気持ちがあると思うのですが、それは我々の中の霊が感じ喜んでいるともいえると思っております。

聖書は、その読む人の考え、心の持ち方で、同じところでも以前まで見えなかったものが見えてくる大変不思議な書物です。 偉そうな事をいってしまいますが、私が今まで感じてきた事では、その人の意識、いわばどれだけ神さんの側に意識をおく自分であるかで、聖書の内容は大きく変わってくる、パンもただのパンでなくなってくる、ブドウ酒もそれそのものではなくなってくる・・・こういうことではないかと・・・

ですから聖書は面白く神秘です。

God bless you.

Mr.Sugar さんのコメント...

ヒゲMac さん
コメント感謝です。

「聖書は、その読む人の考え、
心の持ち方で、
同じところでも 
以前まで見えなかったものが
見えてくる大変不思議な書物です。」 

「どれだけ神さんの側に
意識をおく自分であるかで、
聖書の内容は大きく変わってくる、
パンもただのパンでなくなってくる、
ブドウ酒もそれそのものでは
なくなってくる。」


アーメンです。言われるように
「心の持ち方」で 殆ど総ては
決まってしまうほどのものでしょう。
また私達は
「神の側に意識をおき」
人のことでなく、神のことを考える、
神の側に立った意識を持つべきです。
(マタイ16の23)