アンドロニコとユニアスは パウロよりも先に キリスト「にある」者と
されました。(ローマ15の7)
新約聖書に頻発するこの キリスト「にある」とは 一体
どういう意味なのでしょうか。大げさかも知れませんが、
その点にこそ、新約における総ての祝福のキーが隠されてある
と私は考えております。
・父、子、聖霊の御名「の中へと」バプテスマを授け・・(マタイ28の19)
・キリスト・イエス「の中へと」バプテスマされ・・(ローマ6の3)
「~にある」は英語の場合 in という小さな前置詞です、「~の中へ」は
into です。inは 動作を表すinto の結果の確定、安定した状態を表すの
でしょう。時にそれらの状態は これらと似たon やontoという前置詞で
表現される場合もあるようです。on は深い密着や結合を意味し、
in は更に完全な一体化を意味するでしょう。
だから要点は「接合、結合、一体化」です。
しかしながら私達は それだけの知識で、分かりました等と言うわけには
到底行かないように思われるのです。パウロがそれら inやonという
単語を使用した際、彼は一体「キリストと信者間の どういう状態」を表現
したかったのでしょうか。それこそが正に私達の知りたいことなのです。
いずれにしろ パウロのメッセージの(彼は書簡中in を数10回も使用した)
またイエスの強調点(たとえば最後の晩餐の席上での中心ポイント)の
真の意味を解く鍵は 総てこれらの点にかかっている、とさえ
思わされるのです。
しかし、今日これらの小さな前置詞以上に、キリスト者達によって
無視されている重要単語はありません。「キリストにあって」や
「在主」は単なるキリスト者間の挨拶か、言い回しに窮した際の便利な
逃げの方便として利用されているようです、と思うのは
私だけなのでしょうか。
しかし、私達はそうであるべきではありません。是非 これらの小さな
前置詞の「意味、内容」に強い関心を抱くべきです。ところが、人が
これらの前置詞の 字句上の意味を知るだけでよしとするならば、
そういう状態は恐らく その人の上でむしろ
有害なものとなるでしょう。
今日それらの前置詞によって 意味される実質、内容が 永遠をも包含する
という有効性と価値は 私達の 真剣な追い求めによって悟られる
だけでなく さらに経験され 味わわれることによって
真に証明される必要があるだろう、と考えております。
*
ギリシャ語に精通されている方が
ギリシャ語と英語におけるそれらの前置詞の意味上の差異に
ついて 教えて下されば幸いです。(もしもあれば)
11 件のコメント:
早く死にたい
感謝します。
先日、ヨハネ16章の「私の名によって求める」という箇所を読みつつ、クリスチャンと称される人間が口にする「イエスの御名によって」「in The neme of Jesus」という言葉の中に、その名前に属する者、その名前に遣わされている使節として、その名前の益の為に、その名前にふさわしいことを祈っているだろうか、と考えていました。
仰るとおり、パウロの語る「in」を知り、そこに生きたいものです。
確かに。
主は
「あなたは
in the name..の状態において
祈りなさい」と言ったのであって、
「祈りの最後に このフレーズを付け
加えなさい」
と言ったのでは 決してないですよね。
「in the name..の状態」は
どんなであるか、が重要であると
思います。そうでないと、或いは
それは祈りとは言えないもの
かも知れません!
シュガーさん
アーメンです。
「どんなときにも御霊によって祈りなさい。」「御霊は神の御心に従って、聖徒のために・・・」「御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、・・」「御霊は私(キリスト・イエス)のものを受けて、・・」「キリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」「主と交われば一つ霊となるのです。」
などのみことばが頭をよぎります。
早く死にたい とコメントされた方へ。
最初 あなたの文面に接した時、私は
次のように考えました:
これは多分悪意のある「いたずら」だろう。
もしもそうであるならば、私は反応する
べきではない、と。
(すみません、正直に書きました)
しかし、その後 あるキリスト者との交わり
を通し、考え方を変えました。それは
次のようにです。
たとえ、それが99パーセント悪意であると
しても もしも1%、真実がそこに
入っているならば、私は彼に反応するべき
ではないだろうか、と言うものです。
ですから、今 私の感覚を述べさせて
下さい:それは
「あなたは死ぬ必要などありません。
なぜなら もう既に死んでいるからです。」
と言うものです。
あなたは この聖書の強い主張を 先ず
調べるべきです。死ぬのは それが
「聖書記者達の馬鹿げた妄想である」と、
判断された後でも、決して遅くは
ないでしょう。
人は二回 生まれる必要がありますし、
死ぬのも二度であるべきです。(第二の死は
別のことです)
しかし例外的に一度しか、死なない人が
います。その中の一人はイエスであり、
他は 一握りのキリスト者達です。(その
中に入ることも素晴らしいことです)
いずれにしろ、私達はこの二回の死を
たいそう重んずるべきです。なぜなら
その二回の死の価値は二回とも極めて大きい
からです。私は 一回目の死は既に経験し
ました。ですから、私はもう死んでいます。これは 極めて素晴らしい経験であり、私は
その大きな恩恵に日々 預かっていると、
言えるでしょう。
そして 近い将来与えられるであろう、
もう一つの死について言うと、私は今
それさえも ある意味で楽しみにしている、
と言うことが出来ると思います。
それが与えられる時期、方法、タイミング、
どれをとっても はなはだ貴重なものです。
それらの一点一点が私に対して
絶妙な方法で与えられるべく、私は
今、日々を生きていると言えると
思います。
いずれにしろ、「死の中で」、そして
「死を前にして」生きることほど
素敵なことはないのです。
このことを知らないのは 極めて残念な
ことであると 言わなければなりません。
これまで、相当私は正直に書きました。
あなたとこれらのことについて、
ざっくばらんに話し合えるとしたら
私は何と幸いなことでしょう。
それでは。
Sugar
お久しぶりです。
だいぶ寒くなってきましたが、お元気そうで何よりです。
さて、エシュコルさんよりあるリクエストを頂きました。
>パウロがそれら inやonという
単語を使用した際、彼は一体「キリストと信者間の どういう状態」を表現したかったのでしょうか。
という点。
つまり、パウロがeisとenをどのように使い分けているかという疑問について調べてみて、気が付いたことがあれば、記事としてアップロードしたいと思います。
では、また。
MK さん、
どうしておられるかな、
と思っておりました。
お元気そうで、嬉しいです。
ギリシャ語の方、よろしくお願いします。
私も ある仮説を立てて それを
主の前でいろいろと実行しております。
こういう作業は どうも主も受け入れて
下さっているように思われます。
私達はやはり「放鳥」の実行の試行錯誤、
そして新世界の萌芽を実際に手にする
所まで至らされる必要があるように
思っております。
真の放鳥は多分、in,on の当然の結果
なのでしょう。
変なコメントを書いてすみませんでした。深く反省します
ありがとうございました
いいえ、どういたしまして。
これも
あなたとの
ささやかな交流でした。
あなたのおかげで今
私はとても爽やかです。
だから私も心から
ありがとうと言います。
私達は今回
何と神とさえ交流したのですから。
William (Bill) Mallon兄弟、以前ローカルチャーチにいた兄弟ですが、"In Christ" と題して3つのメッセージをしていますが、そこでは、"in the sphere of new life of Christ" という意味だという話しから始め、メッセージを進めています。詳しくは下記のサイトでダウンロードできます。そのサイトの一番下の "SCA Winter Conference 2004" にあります。
http://www.seattlechristianassembly.org/Messages/SpecialMsgsEn.html
兄弟 有難う。
後で ゆっくり読ませていただきます。
また、このような形ではありますが
これもイン クライストの交わりではない
でしょうか。感謝です。
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