2009年10月17日土曜日

総論と各論

私達は「先人達」を総論的に扱うことによって 彼らを褒め称える
べきではありません。それはまかり間違えば、人を賛美する罪とさえ
なるでしょう。

真のキリスト者であれば例えば パウロを手放しで総論的に誉め、彼を
礼拝すること等しないでしょう。そのようなことを臆面もなく行う人々は 
いずれ必ず「パウロ教会」を設立するでしょう。
それは明らかに大きな罪です。

しかし、私達はパウロが述べたことの詳細、即ち彼の具体的な各論には
多大の注意を払うべきです。なぜなら それらは神からの啓示であったから
です。当然のことながら、私達は「神によって保護設立された神からの啓示
としてのパウロの書簡」を尊重するべきです。

しかし、パウロ全体を、彼の行為の総てを崇め、彼自身を総論として
手放しで褒め称えることは決してしてはならないのです。何故なら彼とて 
あくまで人であり、神ではないからです。

彼の書簡は「神によって守られ、設立された神からの啓示(ロゴス)」ですが
彼の言動の一切、総てがことごとく完全に 神ご自身を反映していた
わけではありません。それは当然でしょう。彼とて赦された罪人に過ぎず、
まだ肉体の中にいたからです。

いかなるすばらしい先人でも その人を総論的にたたえることには注意が
要ります。私達はむしろ ことさらにそのようなことをする人の行為には 
多くの場合、純粋でない人間の画策が潜んでいると見るべきです。即ち 
そこには 先人を褒め称えることによって、実は彼ら自身の欲望を達成
しようとする明確な意図があることに気づかなければなりません。

それは昔の預言者の碑を建てる行為と似ています。彼らは先人の碑を
建ててそれを飾ること、即ち総論として先人を褒め称え そのようにして、
実際の所は、先人を利用しようとしていたのです。(それは虎の権威を
借りて人々に対する自分達の権威を確立するためでした。)

しかし彼らは 先人に与えられた神からの啓示を一つ一つ調べ、それらを
具体的に自分に適用し、従うことはしないのです。むしろ彼らの行動は
実際的には 先人達の具体的な各論に対して反抗していたのであり、
彼らの行為は先人の各論とは ひどく矛盾したものであったのです。
正に彼らは「総論賛成、各論反対」なのであり、これは先人にとって、
そして神にとって それ以上の侮辱はあり得ないでしょう。

私達も決して昔の預言者の碑を建てるべきではありません。そうではなく、
彼らに与えられた「神からの啓示」の一つ一つを丹念に調べ、自分に厳しく
それらを適用し 具体的に従うべきです。従って深く敬愛することこそ
あれ、決して彼を一兄弟以上の何者かのように見なすべきではありません。

結論として、私達は
各論のみならず、総論的にも、手放しで尊重し 褒め称えることが出来る
対象は 唯一 神なる人、主イエスキリストのみであることを 今再び深く
深く肝に銘じなければならないのです。

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