2009年1月12日月曜日

キリスト者の道程と神の御心

キリスト者には明確な進むべき道があります。
それは大まかに言って
①御血による複数形の罪の清め(御血の認識)
②キリストの十字架によって「身体に関わる罪」に対して死ぬ経験に
入ること(ガラテヤ5章にあるような際立つ汚れた肉からの解放)
③魂に関わる「隠れた精神的な肉」の対処の為に自分の魂の命を死に
渡すべく日々自分の十字架を負うことです。

換言すれば②と③は
私の霊が「罪・この世」と「私」から解放され、唯聖霊にのみ
従うことが出来る段階です。それは即ち
私の魂は②「体の肉の奴隷状態」の中にいるのか、更に進んだ段階として
③私の霊は「魂の束縛」の中にいるのか、と言うことです。いずれの
場合にしろ、私の魂は速やかに私の体の肉の拘束から自由になる必要が
あるのであり、更に私の霊は私の魂の抑圧から解放される必要がある、
と言うことです。

そのようにしてもしも私が
②と③の段階をクリアしたとするならば、私の霊の中の聖霊の命は
私の「魂の機能」を支配下に置き、私の魂を経由して私の体から
この世にさえ流れ出て行くことでしょう。

これらは、イスラエルの民が出エジプトをし、「全く必要の無かった
荒野での長年のさまよい」を経て、ヨルダン川を渡ったことによって
象徴されるでしょう。当然、彼らの真の目的、イスラエルの民が
速やかに到達するべき場所はカナンのよき地でした。


このことをパウロはⅠコリントの2章で、肉的なキリスト者→霊的な
キリスト者の描写によって描いているようです。
(しかし実際には①肉的なキリスト者→②魂的なキリスト者→③霊的と
魂的が混ざったキリスト者→④霊的なキリスト者と言う段階がある
ことをも暗示しているかも知れません。)

Ⅰコリントで示されているもう一つのことは
①のキリスト者が④に至る時間は長くても数年を超えてはならない、
と言うことではないでしょうか。即ちコリントの信者が「真理を語る
ことば」の能力や「霊的な知識」に卓越していること、いろいろな
「神の賜に欠けることが無かった」(1の5、7)にもかかわらずに 
未だに①の肉的な状態(赤ちゃん状態)に留まっていることに
あきれ果てているパウロがこの書に明示されているのです。(汚れた
罪の横行するコリントに住む彼らは、その影響から脱することが出来ず、
またキリストと真理に対して根本的な誤解があったと思われます。)


先ずキリスト者は、自分は一体どの段階にいるのかを真に神によって
示していただく必要があるのであり、自分勝手にスキップすることなく、
順を追って確実に前進する必要がある筈です。

そのようにして、キリスト者が速やかに到達するべき段階は④です。
なぜならこの段階に至って初めてキリスト者は神の為に、神の敵と戦う
ことが可能となるからです。(赤ちゃんや幼子は戦えない)
霊的なキリスト者とは毎日、歓喜に溢れてばかりいるキリスト者
などでは決してなく、神の目的の為に見えざる神の敵・悪霊と格闘する
人々であるようです(エペソ6章)。それはカナンの良き地に入った神の
民の生活を見ると容易に分かります。彼らの生活は荒野での敵に勝る
更に多くの敵達との激しい戦いの日々でした。

しかし良き地(霊の中)における霊的なキリスト者の激しい戦いの
目的は更にその向こうにあったのです。そこにこそ、
この時代における究極的な神の目的、神の御心が存在するのです。


私のパソコンがとても不調です。今日は調子がいいので慌てて
これを書いています。しかしいつまた動かなくなるか分かりません。

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