2008年6月20日金曜日

あなたの存在が

あなたの「言動」などではなく、
ただあなたの存在が、
ひたすら一点キリストと その凝縮された死
の中に留まっているあなたの存在こそが、
キリストと共なる復活の中で
人に見えない啓示の光を届け、
この時空の中 初めて
人に永遠と天来の何かを見させる。

そこに輝くのはただキリストの栄光。
誰一人として
あなたの 神に隠された存在に気づくことはない。
あなたはその時 一人黙って 再び 
あの閉じ込めと死と墓に戻るだけだから、
バプテスト・ヨハネのように。

(ピリピ1の12、20~24)

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

「生きることはキリスト」に至る、言い換えれば、十字架の死を経て復活のキリストに至る、これが神の業ですが、最初の第一歩の「十字架の死」もいくつかのステップ、少なくとも二つのステップ、プロセスがあると思っています。まずは誰でも経験するあの嫌な感覚、逃げ出したい感覚、あるいはそれにスタックしてしまい、どうにも逃げ出せない閉塞感の感覚、つまり死の感覚ですね。まずそれが私たちを襲います。次にその死の中に留まり続けると、次にやってくるのがあのキリストの十字架の死ではないかと思っています。しかしこれは最初のあの嫌な逃げ出したくなる死の感覚とはまた違った死の感覚です。自分が握っているものを一つずつ捨てるには、まずはこの嫌な死を通過しなければならないと思います。しかし多くの人はここから逃げ出してしまいます。この嫌な死の感覚に留まり続けると、いわゆる諦めの境地、すべてを放り出したい境地に至るのです。するとあのキリストの死の中に入ってけるのではないでしょうか。そしてその死の中に留まり続けると突然復活のキリストがやって来る?私にはあまり経験がないので分かりませんが、そういうことなのでしょうか。あるいはキリストの死に中に留まる続けると、自分は復活のキリストの中にいるということをただ信じる信仰が与えられるということなのかもしれません。まだ私には少ししか分かりませんが。いのちの領域の拡大を生きるだけですね。Sugarさんまた下界でお会いしましょう。お気をつけて。

Mr.Sugar さんのコメント...

良い問題提起を感謝します。

真理に立っての
こういう実際面における考察や実験、
追い求めがとても大切であると
思っております。
集まりの一つの機能は
そういう発表、実験報告等
でもあるべきです。
それは全員が出来ることであり、
そこにも体の大切な役割があるのでは
ないでしょうか。
神の宝を実際に使用し実際生活に
生かし出さなければなりません。
それはこれからの大きな課題です。

今から下山です。それではまた。