2008年5月2日金曜日

集まりに見る復活のキリストVS.固定化

もしもキリスト者の集まりの実質が「今天地にある復活のキリスト」
であるならば、当然現在のキリスト者の集まりにも復活性がなければ
なりません。復活とは無死、無制限、超時空です。もしも
そうであるならば、復活ほど固定しにくいものは無いのです。
復活を固定し、規定し、縛ることなど出来ません。ですから
キリスト者の集まりに固定化、規定、縛り等は全くそぐわないのです。

キリスト者と言えども今この時代、当然「時空の制限」を受けます。
しかし、彼らは その制限を越え制限(その中に死をも含む)を
打ち破る復活をも持つのです。キリスト者がこの相反する2つの要素を
併せ持つのは明確に神の意志によります。
そのためにこそ キリスト者は今この時代 敢えて時空の制限と
その中にある様々な困難や圧迫の中に置かれているのです。

それは そこにある2者(制限と無制限)のコントラストを
宇宙に対して鮮やかに展覧するためです。これ以外に神の意図は
ありません。その神の意図とはキリスト者が「時空とその中の諸物」
に対する復活の圧倒的な優越性を「制限と圧迫の究極」即ち
キリストの十字架を経由して顕現することです。換言すれば
キリストの復活における「閉じ込められと死」に対する打破・勝利は 
今時空の制限の中に置かせられているエクレシア(教会)においても
全く同様の事実であることを明らかに証明する為です。かように
十字架(制限と死)は復活(無制限と不死)の門として
今も有効に機能しているのです。


復活の対極に固定化、規定化、セット化、物質化があります。
人は何故か キリストの復活と正反対のことを企てます。
どうしてでしょうか。
それは集会をしっかりと物質的に安定させ固定し、その上集会の根を
この世の地下に深く張らせ 更に上に大きな木として枝葉を繁茂させ、
それを天下に誇示したいから、ではないでしょうか。

それは元々一年生の野菜に過ぎないカラシダネが「敵の仕業」
(マタイ13の28)によって異常にも大木となり 遂には空の鳥
(堕落した空中の生き物)を木々の間に無数に宿す結果となるような
ものです。(マタイ13の31、32)
この「野菜の大木への進化」は創世記にある「種類に従って」と言う
「神の命の法則」に反します。これは不法者(マタイ7の23)の
不法の働きです。「不法・lawlessnessの秘密は既に働いているのです」
(Ⅱテサロニケ2の7)

人間生活の延長線上にあるべき素朴で伸縮自在なパンを裂く集まりを
人は 聖餐「式」として固定します。自在な兄弟姉妹の関係を変えて、
ある人にある「権威」を付与する事により
兄弟姉妹の関係を2分し、そこに固定化を導き入れます。  
自由な発想から命が流れるべき集会に 固定的な「式次第」を導入し
「厳粛な」かたちを創作し主日の集会を日曜礼拝として権威づけるのです。
これらは総て「犯してならない権威」を伴った「宗教セット」
として機能し、人々を散逸から防ぎます。
これは要するに「宗教的な神への恐れ」を導入し、人々を効果的に縛る
と言う敵の算段です。これらは復活性の対極の場所に、いつの間にか
巧みに導入され そして密かに構築されてしまったのです。


さて 物質の肉体を取られ時空の制限下におられた時のイエスでさえ 
彼を何らかの枠の中で捕らえるのは至難の業です。ましてや総ての制限
から解放された復活のキリストを「こうだああだ」と規定することなど
もとより人に出来る仕事ではないのです。

今仮に復活のキリストを「伸縮自在なキリスト」と呼んで見ましょう。
(敢えて言えば千変万化のキリスト、神出鬼没のキリストでもある!)
さて、この伸縮自在なキリストの現れであるキリスト者の集まりも
伸縮自在性を持っている筈である事は前述しました。それ故に、
新約聖書をいくら読んでも見ても 当時の集会はこうであったと
具体的に語る事は極めて難しいのです。

所が正にその事にこそ 神の意図が暗示されているのです。
聖書は敢えてそのように書かれていると言ってもよいでしょう。
即ちそれは私達をして「聖書の事例から それらに従って歩むべき
様々な規定等を引き出させたい」のでは無く あなたをして集会の
リアリティ・内容であるべき「復活の伸縮自在なキリストの実際に
真に触れさせたい」と言う事なのです。
「集会に関する正しさ」を守らせることではなく、キリストと言う
「とても魅力的なお方そのもの」を本当にあなたのものとさせたい、
のです。実は人が文字によってたやすく規定できるような
底の浅いものに永遠の魅力はあり得ません。神はあなたをして「この
永遠の魅力を有するお方」を自発的に熱心に探し求めさせたいのです。

さて 彼らの集まった場所はどんな所だったのでしょうか。
今分かることは 彼らはユダヤ教の会堂から追い出され 日常集まる
場所は普通の家々であったと言うことです。これはとても自然な事
ではなかったでしょうか。それに反し 彼ら独自の固定した礼拝堂が
あったとか、パウロが教会堂建築の陣頭指揮を取った等とするヒントは
どこにもありません。また彼らはどういう時に集まったのでしょうか。
主日(日曜)に、と言う記述と日々に、と言う記述は見出されます。
彼らは主日にそして日々集まったのです。明白なことは彼らの集まりは
彼らの普通の生活の延長線上にあったことです。
彼らは日常生活の合間に無理なく自然に集まった筈です。
(だから2,3人と言う数字はとても重要な意味を持つのです。)

また 今日の「日曜朝の礼拝」のような「メインの集会」と言うものは
あったのでしょうか。もしあるとすれば「パンを裂く集まり」が
それでしょう。しかしそれは、家々で行われたのです。また
より大きな集会として複数の家々の人々がより大きな1つの家に
集まってパンを裂いた記録はあります。いずれにしろ、
日常における彼らの集会所は彼らの家々であったことは明白です。

復活のキリストの表現としての当時のエクレシヤと集会の姿は 
現今のキリスト教に見られるようなあり方とは全く
似ても似つかないものであった事は誰の目にも明らかです。
しかし、私達が決して看過出来ないポイントは その両者は 極端な対極に
さえ位置していると言う事実にあるのです。今日 大手を振ってまかり通って
いる「固定化現象」はどうでもよい問題ではなく、神と復活のキリストに
真っ向から対立する何物かである、と言うことです。
私達は今神の御前において これは極めて深刻な問題であると
言わなければならないでしょう。


それでは「どう集まるべきか」と言う問題において
私達はそれとどう向き合えばよいのでしょう。それは単純です。
ただキリストに直行し、自分が「今日のキリスト」と一つにされている
と言う素晴らしい事実を信仰を用いて受け入れ、しっかりとそこに踏み留まる
以外にありません。ですから 当時の具体的な集会の様子を調べること
によりそれらを私達の集まり方に「取り入れる」と言うよりは、先ずは自分が
普段の生活の中で十字架を経過することによりキリストの復活を生き生きと
体験することが先決となるのです。

2千年前 御言葉が日々増し加わっていた頃 彼らを魅了して
やまなかったのは「キリスト者の集まり方」などではなく「あのお方」
「私の主」「復活の生けるキリスト御自身」であり またそのキリストを
内に持ちそのキリストが伸縮自在に、千変万化にそして神出鬼没に
行き交っている兄弟姉妹との交わり、そういう聖徒達と共に集まること、
正にそれ自体であった筈ですから。

アブラハム、イサク、ヤコブの神は、死んだ者の神ではなく、
生ける者、即ち「復活の中に生きる者」の神です。
神にとって「生きている」と言う意味は「復活の命に中に生かされている」
ということ以外ではあり得ないのです。(マタイ22の29から32)

キリストは決して古い着物や皮袋に合致することはありません。
伸縮自在の復活のキリストは常に 硬直した固定を「破り」「張り裂く」
ようにあなたの中で、そして集まりの中で作用するのです。
(マタイ9の16、17)それが固定を常に打破する復活のキリストであり、
またエクレシアの姿であり、彼らの交わりの実態であり、
キリスト者の集会の様なのです。

*神出鬼没のsugar 流解釈:キリストの十字架によって鬼は水没。
             復活としてのキリストが出て来る。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

神出鬼没・・・う~ん、なるほど・・・。

Mr.Sugar さんのコメント...

復活のキリストの超越した能力を

さらに知りたい。