キリスト者がついて行くのはただキリストお一人です。
この原則は絶対的に重要です。
そしてキリスト者が交わるべきは「総ての兄弟姉妹」です。
あなたはいかなるキリスト者にもについて行ってはなりません。
しかし、彼との交わりは遮断してはならないのです。
ついて行かないで彼と交わるのです。彼と対等に交わるのです。
この原則を乱したのは神の敵です。いつの間にかキリスト者達は
人と交わらずに、人について行くようになってしまいました。
そのようにして「交わりとは何か」の真の知識と経験をキリスト者は
見失しなってしまったのです。この様な風潮の中では人は 先ず、
それぞれ自分の好みに従って自分がついて行けそうな人を品定め吟味し、
そして最後に決定するのです。この作業が終わればあとは楽です。
後はその人について行くだけですから。
(その「楽さかげん」の中にはキリストの死と復活の学びなど
あるはずがありません。従って真の交わりもありません。)
しかし「人が人についてゆく」世界、これは大変です。
もしもそれを安定的に持続しようとするならば
①強固な「宗教セット」と「人の一生丸抱え体制」を構築するか
②強固なカリスマ性のもとに人々の上に強固な宗教的権威を発揮する
以外にありません。
もしも①の強固な体制を築き上げてしまえば たとえリーダーが多少
いい加減であったとしてもそこにある体制が人の散逸を防いでくれます。
ここに例えば「サンデーモーニング礼拝絶対噂守思想」等が
生まれるのです。その場合最も大切なのは神でもリーダーでもなく
「礼拝を守ること」です。だから「自分の信者さん達」を散逸から守ろうと
するならば「儀式セット」と「人の一生丸抱え体制」は不可欠なのです。
しかし強固な宗教セットは聖書的でないと判断する人達であれば、後は
強固なカリスマ性のもとに人を恐れさせさえする絶対的な宗教的権威を
導入しなければなりません。その場合 彼らのリーダーに従うことが
イコール神に従うことになります。この場合リーダーは一人ですが、
その一人がいなくなった場合でも その権威を受け継いだ複数の人たちの
グループによっても持続可能です。(しかし弱体化は避けられないでしょう)
このケースにおいては「私達だけが聖書的で正しく純粋なグループである」
と言う信念と誇りが効果的に信者達の散逸を防御する機能を発揮します。
さて以上の2つの方法とも神の方法ではないと退ける人達の場合は
どうでしょうか。 それ以外の方法で人々の散逸を防御する方法が
あり得るでしょうか。それは相当難しいのです。結論から言うとありません。
しかしある人は言うでしょう。上の①②が無いとしても「もしも一人の人が
聖書的で賜物豊かな魅力あるメッセージが出来さえすれば 多くの人々を
引き付けることが出来 大きな集団でさえ維持出来るのではないか」と。
しかしこの方法を取る人たちは実は大変です。なぜならこの場合
どうしても人々の視線の方向が その一人の人に集中するからです。
そして、人々は当然その人の人格に信頼するが故に自然に
その人の言うことに ついて行こうとするからです。
これらを防ぐてだては全くありません。
彼は宗教セットや絶対的権威の使用は出来ません。だから彼は
言わば丸腰で勝負するしかないのです。彼が持つ武器、それは
「彼のメッセージと彼と言う人」だけです。従って人々は
彼の思惑など省みず 正にその2点・彼のメッセージと人格に
総ての注意を集中させてしまうのです。
しかしながら 元々このような人々の篤い視線の集中に
耐えられる人は存在しません。人はあくまでも人です。
人の内面の本質は腐敗と死と虚偽です。早晩必ずある日
何らかの事態の中で その人の真の内面の一部がしみ出し、
暴露される時が来ます。その時、その人の周りに集まっていた人々は
落胆しその集団は崩壊に向かうことになるのです。
少なくも多くの人々は彼のもとから離れて行くでしょう。
だから「1人の人の周りに良いメッセージを聞こうとして人が集まる
と言う構造」には 彼が①か②を採用しない限り
初めから無理があるのです。
新約聖書には ①と②は言うに及ばず、とても素晴らしく見える
この第3のケースでさえも(実際には①②③の巧みな混合が見られる)
それを擁護する箇所はどこにも見出されません。そういう模範は
無いのです。聖書はひたすら「極めて明確かつ確固とした力強い
ただ一人のリーダーを神は絶対的に定められた」と主張するのです。
そしてその一人のお方こそがキリストです。神の目から見れば
「リーダー・キリストがそこに あなたのすぐそばにおられる」のです。
これが神の定めであるが故に 神とキリストはこの定めを無視し
「現にそこにあるキリストの実際的効果的強力なカバーリングと導き」を
現実には無いかのごとく無視する人々を許すことは絶対に出来ないのです。
問題の所在はひとえに「人について行く」にあります。キリスト者達の間で
そこにあるべき唯一のものは「交わり」であってメッセージではありません。
私達は 人について行くのではなく 唯彼と交わるのです。
このことが真に分かっている人であるならば「リーダーとおぼしき人」が
ある日、どんな状態に陥ったとしても彼を憐れみこそすれ つまずくことなど
あり得ないのです。なぜなら彼は人とは初めからそういうものに過ぎない
ことを知っているし、現実的に彼の真のリーダーは唯キリストだけであり
他の導き手など全く不必要であるからです。その人は初めから
あなたが従うべき人などではなく
あなたが対等に交わるべき人に過ぎなかったのです。
☆
さて「真の交わり」が存在するところにだけ、実際的なキリストが出現する
可能性があります。そして「生けるキリストがキリスト者間の交わりから真に
現れる」ならばそこにこそ キリスト者間の自然で美しい「服従」でさえ
生み出て来るのです。それこそはキリストの復活の命から生え出てきた
服従です。これは夢物語などでは決してありません。もしもその様な
「交わり」を私達が知り学び、実際的に体験することがないとするならば、
私達に前途は全く無いと言ってもよいでしょう。
もう一度言います。私達は決して人について行くのではなく、
ただ人と交わるのです。
*「交わり」はお話し合いではありません。
ましてや会議、討論、説得、対決ではありません。
*次回は実際面を「交わり」ます。
4 件のコメント:
菅原さん、千葉のMです。やっと我が家にも光ファイバー敷設されパソコンも新調したので初めて投稿させていただきます。偶然にも同じようなことを考えていました。ウォッチマン・ニーのキリストの奥義にも下記のように書かれています。『私たちが主イエスという頭(かしら)に結びつくときはじめて、兄弟姉妹に結合することができます。からだ(教会)の肢体(我々キリスト者)は、頭に結びつくことを通して、組み合わされて、からだのいのちを生きることができます。兄弟姉妹との私たちの関係についてのすべての問題点は、私たちが主の絶対的な主権の下に来るときに解決されます』
それでは今からドイツに行って参ります。5月に山小屋でお会いしましょう。
その通りだと思います。
とても重要なポイントですね。
さて
マルシアが子供達が来ると言うので
何か準備をしているようですよ。
Sugarさん
ご無沙汰しております。
兼ねてから感じていたのですが、「メッセージ」がなくても「礼拝」も「交わり」も成立すると考えます。カフェやレストランでこの世の「真ん中」で兄弟姉妹達と会う時にも主は我々の中心にいて下さると信じます。今日も、奈良からの帰途の途中でfunky兄弟とこの記事の内容を「交わり」らせていただきました。
例えば今日の我孫子では、多くの祈りと
沢山の交わりと食事とお茶だけでした。
あんな時 メッセージをしたらヘンです。
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