「ついて行かないで交わる」の次は「神に依存し、人から独立する」です。
私達は表題とは逆に 実にたやすく
「見える人に依存し、見えない神から独立する」のです。
これが人の本姓です。そしてここにこそ総ての問題の根源があるのです。
しかしあるべき姿はそうではなく、個個人が人からは独立し、しっかりと
「神に依存する」ことです。もしもあなたが「神に依存すること」の意味を
知らず、それを体験的に学ぶこともなければ、必然的にあなたは
「人に粘着する」ことになるでしょう。そしてその人への粘着は
必ずある日 腐敗し悪臭を放つようになるのです。
しかしとても不思議なことなのですが 逆に
「神へ依存し、人からは独立すること」を堅く土台とするならば、
そこに初めてキリスト者達(複数の個人)のあるべき姿の集まりが
生え出て来、真の交わりが自然に花咲くのです。
「神への依存がどんなことかを知り、人には独立して決して隷属せず、しかし
いかなるキリスト者とも交わる態度を有する広い心を持つ人」の周辺にこそ
真に多くの人々を結び付け一つにする復活の命の自然な働きがなされる
のを いずれあなたは見ることが出来るでしょう。
☆
「神に依存する」「神に信頼する」とは「神を私の必要の総てとすること」
であり、その「神を私の必要の総てとすること」の最も素晴らしい姿は
「私と一つとなって下さったキリスト」の中に安息するキリスト者において
見出されます。そして神は既にキリストによって 正にそのことを
実現して下さったのです。 そして何とこの真の「神への依存」の中に
キリスト者の集まりの本質が隠されているのです。
キリストは断言されました(これは新約の一つの頂点を示す言葉です):
私が行って、あなた方に「場所」を備えたら、また来て、
あなた方を「私自身に」(原文)迎えます。「私のいる所」に、あなた方も
おらせるためです。(ヨハネ14の3)
この聖句の「私が行って」とはイエスが十字架に行くことであり、そして
「場所」も「私のいる所」も「私自身」即ち復活のキリスト御自身です。
そしてキリストは「その場所」即ち、復活の御自身そのものに「私達総て」を
既に迎えて下さっているのです。従って復活のキリスト御自身の中に
(in Christ,主の中に,主にあって)古今東西の総てのキリスト者の
交わり、集会の「場所」があることになります。
その場所にこそキリスト者の集まりの本質・原点があるのです。
キリスト者達が集まるべき場所、それはあそこでもここでもなく
唯キリストの中です。そしてあなたがその「場所」に留まる時に
あなたは最も素晴らしい姿で神に依存しているのです。
そして更に その場所(復活のキリスト)の中には時空を超えて
総てのキリスト者達が集っていると言えるのです。
要するに あなたが神に依存する場所が同時に
総てのキリスト者と共に集う場所でもあるのです。
復活のキリストの中には神への依存と
キリスト者達の完全な一つが共存しているのです。
ですから、例えば あなたがたった一人で山の中にいたとしても
あなが「その場所」に留まり安息するならば
あなたは神に依存しているのであり、また
あなたは46時中、時空を超えて総てのキリスト者と共に、
御父と御子イエスキリストとの交わりの中にいることになります。
その永遠の交わりこそ「完全な集まり」であり
そこにこそ集会の本質、実質が存在するのです。
これまでを要約すれば 集会の本質、原点とは:
その場所は礼拝堂などでなく「復活のキリスト御自身」であり、
その時間とは日曜日10時半から などではなく永遠、いつもであり、
集まりの目的は
良いメッセージを聞いて一時的に「聖なる」気分に浸ること等ではなく
御父、及び御子イエスキリストとの時空を超えた交わりであり、
また「その場所」にある総てのキリスト者との天的な交流なのです。
☆
だから当然 この永遠における集会・交わりが今時空に出現する
キリスト者の集会においても、それと全く同じ
原点、本質、実質がそこに存在していなければなりません。
従って先ずは 私達個個人が 上記の「永遠における交わり」の中に
いる必要があるのです。
もしそうでなければ
今この時間の中でいくら熱心に沢山のキリスト者が
良いメッセージを聞く為に集まったとしても、
それは交わりや集会の実質・本質に欠けることになるのです。
その実質のない集まりは単なる生まれながらの人間の
「粘着する魂の集合」に過ぎません。(そこからはいずれ異質な
何ものかが必ず出現して来ます)それは 決して
聖書で言う「交わり」でも真のキリスト者の集まりでもないのです。
従って あなたがその目に見えない永遠の交わりの実際を今持つこと無しに
目に見える時空の中の交わりを持つことはあり得ないのです。
それ故 総ての事の初めに私達は 集まりの原点は目に見えない所、
即ち霊の永遠の領域・キリストの復活の中にあることを
私達の霊の中で明瞭に見る必要があるのです。何故なら
今ある「目に見える交わり」と言うのは
単に「永遠における原型としての交わり」が時空の中へと
再現、或いは投影されたものに過ぎないからです。
*
「私の言うことを信じなさい。あなた方が父を礼拝するのは、この山でもなく、
エルサレム(目に見える物質的なもの)でもない、そういう時が来ます。・・・
神は霊ですから(神は時空を超えた霊であるから)神を礼拝する者は、
霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4の21、24)
「私達の交わりとは、御父および御子イエスキリストとの交わりです。」
(Ⅰヨハネ1の3)
「私達は見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
(Ⅱコリント4の18)
「父よ、あなたが私におられ、私があなたにいるように、彼らが皆一つとなる
為です。また、彼らも私達におるようになるためです。」(ヨハネ17の21)
「父よ。お願いします。あなたが私に下さったもの(総てのキリスト者)を
私のいる所に私と一緒におらせてください。」(ヨハネ17の24)
「私に留まりなさい。」(ヨハネ15の4)
4 件のコメント:
アーメン
その通りになってきています。
主が私に体験させてくれてます。
ハレルヤ!
ことをなさるのは神です。
私達はあの小船の中で、ただ主と共に
安息するだけです。
「実質」と「陰」が逆転する現象は、あちらこちらにあります。
神の永遠が時空を越えて私たちの日常に降りてくるのは、人の子イエスを中心とする同心円の中だけです。
どのような優れた働きも、イエスが唯一の中心であることを妨げるようなものであるなら、それは異臭を放っているのでしょう。
私も心して発信していきたいと思います。
イエスキリストと言う同心円。
永遠性のその円が拡大し
時空の領域の随所に顔をのぞかせる。
価値があるのはこの円だけです。
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