2007年12月29日土曜日

「キリストの中の私」へ(3)

私達人の観念では、
神は私達一人一人に別個にそれぞれ救いや恵みを提供してくださる
と言うものです。しかしそれは全くの誤解です。
神の方法は、ただ一人の人の中に総てを結集し
次に他の人々をこの一人の人の中に置く、或いはその一人の人と
一つにして下さると言うものです。
ただ一人の人において総てをなさり、他の総ての人々を
その一人の人の中に入れ込むのです。

*罪の裁きとその執行、そして古き人を終わらせることにおいて
神は私達の自己改善の努力を全く評価しません。それどころか二千年前 
神は私の存在そのものでさえ忌むべきものとして始末し
墓の中に放り捨てたのです。その墓の中で私は今腐乱死体と
なっていることでしょう。そうなる前「あの最後のアダム」が木の上に
釘付けられていました。しかしあの罪人(ざいにん)は実は
神によって呪われるしかなかった「私やあなたと言う罪の肉のかたまり」
なのです。そこにいたのは他でもないあなたや私だったのです。
どうしてあれが「あの無垢なるお方」である筈などあり得ましょうか。
しかし事実イエスはそこにいたのです!そうです、そのようにして
イエスはあなたとその死において一つとなられたのです。
呪われた木の上の罪のかたまり、それが私と言う人に対する
究極的神の見方に他なりません。
そのようにしてあの時点であなたは処罰され 死んだのです。
もうあなたに対する神の処刑は終わり、
あなたと言う存在は絶たれたのです。

しかしこれは何と幸いなことでしょう。
何故なら神はもう二度と あなたを処刑することが出来ないからです。
最後のアダムとの一つの中で あなたは神の恐るべき
刑罰をもう受けたのです。これが神の方法です。
私達一人一人が自分の罪を嘆き悲しむことによって、
或いはあなたがあなたを十字架に付けることによって、その努力によって
神は私を赦してくれるのではありません。もう既に神はあなたに対して
正当に刑の執行を執り行ったのです。あの一人の人において正当に
そして法にのっとりあなたに対する処刑を既に完了されたのです。

ですから、ここで私たちは 私への罪の裁きは終わっていること、また 
私が神の為に良き業を遂行する上でも 私は何も出来ない所か、
神にとって私は忌むべき墓の中の腐乱死体であることを知り
神に対する一切の義務感から解放されるべきなのです。
木に釘付けされた肉の塊りや墓の中の腐乱死体が神の為にどんな
良きことをなし得るでしょうか。腐乱死体が 墓から抜け出して神の為に
「良きこと」等をしようとするべきではないのです。

さてそれでは なぜ以上の様なことが可能なのでしょうか。
なぜ物理的には時間も空間もはるかに離れたあなたに
イエスの十字架が適用され得るのでしょうか。
それは神が十字架上でイエスとあなたを一つにされたからです。
あなたはアダムであり 彼は最後のアダムだからです。
神の目に人類は一人の大きなアダムであり
最後のアダムは総てのアダムの総合計であったからです。
そのようにして神によってあの十字架上に 
I in HIM と言う事実が存在したのです。
これが神の方法です。
神は 総ての人を包含したただ一人の人の上でのみ 
総てを行われたのです。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

初めまして
よくブログを読ませてもらっております。

ですから、ここで私たちは 私への罪の裁きは終わっていること、また 
私が神の為に良き業を遂行する上でも 私は何も出来ない所か、
神にとっては私は忌むべき墓の中の腐乱死体であることを知り
神に対する一切の義務感から解放されるべきなのです。
のところが、心に残りました。

Mr.Sugar さんのコメント...

徹底的絶望が復活への門です。

しかし私たちにできることは 

その神の私に対する徹底的絶望と言う

評価を信じるだけです。

あのお方のはりつけにおいて

神は人に対してその事実を信仰を用いて

受け取るようにと 

叫んでおられるに違いありません。

人はただ信じ受け入れればよいとは

何たる福音でしょうか!

今私も改めてその言葉を信じます。