2007年5月10日木曜日

   早朝 5時 山歩きレポート

   ☆

  樅谷山あたり
山吹の黄色が あそこにも ここにも灯(トモ)り 
あたり一面 むせかえる木々の若みどりの中
オペラ歌手クロツグミと ソプラノ、ウグイスの 
激しい競演。       でも
遠くの のんきな ツツドリの控えめな低音も いいな、

 の中で思ったこと:

古きものの一掃が キリストの十字架だとすれば
今 存在するものは 復活のキリストのみ の筈。

だとすれば この時空の中の「リアルな諸事実」そして 
   今ここにいる 私は 何? 何の為?
         
 それは   
 「神にある永遠の真理」の証明の為に
 その真理を写し出す 時空の中のスクリーン、
       に違いない。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

>「神にある永遠の真理」の証明の為に
 その真理を写し出す 時空の中のスクリーン、に違いない。

例えば「愛」。あるメッセージで、黙示録の描写、御座の前ではもはや「愛」という言葉はなく、神の「聖さ」のみ。それは、愛は当たり前にそこにあるから、ということが語られたのを覚えています。

愛を知らなかった罪人が完全な愛を知り、味わい、満たされるようになる・・・
それをディスプレイできるのは、やはりこの時空の中のスクリーンなのでしょうね。

知らなかったものを知るようになる。なかったものがその人から現れる。これはすごいことです。

Mr.Sugar さんのコメント...

 キリストの業は永遠性のもの、その勝利も完成も。
 サタンや人類が いまだに時空の中に留め置かれているのは、彼らがその永遠の事実証明の為のステージだからなんでしょうね。
 主役は 時空と永遠の双方を所有しているかよわき不思議な存在。
 今 有限の彼らから無限性の何かが 日々リリースされるべきなんでしょう。それが 期間限定の「時空スクリーン」に投影される。だから 毎日少しでも 復活という永遠性の中に生きないと、ということになるのでしょう。