十字架を負うとは「苦労すること」ではない。
神の永遠のご計画が啓示され また
私に対する神の御旨を知り、それに捕らえられ
心がそれに向けられるとき
そこにおのずと 敵の霊的領域から
ある種の 抵抗し反発する力が必ず発生する。
十字架を負うことは その抵抗するパワーにもかかわらず
御旨を見つめ なおもその方向に進もうとする
あなたの毅然とした心のたたずまいから 発する。
十字架を負うとは その暗闇の抵抗の中で
御旨に向かって 歩を進める一歩一歩の歩みそのものであり、
時には 更に深い制限と圧迫の中に運ばれて行くこと、である。
あなたが神の御旨の価値を知ることにより
毅然とした心のたたずまいをあなたが示し、
死の圧迫の中でさえ 御旨の方向に歩を進めること:
それはあなたが 主イエスの手から そのケースの為に
特別に用意された あなたの為だけの十字架を
直接受け取ることを意味する。
これは しかし よく誤解されているように
決して一世一代の深刻な 歯を食いしばる経験と
するべきではない。
これは 日常の些細な場面において しばしば
経験されるべき「あなた用の日々の十字架」なのだから。
あなたは毎日のように平然として その中を経過して
行くのであり、遂には 死とその後に訪れる復活の経験を
当たり前のように 内的な笑みをさえ たたえながら
「楽しむ」ことになる。
2 件のコメント:
今日、品川から新幹線に乗る前に、駅のドーナツショップで「標準」の最後の方を読んでいました。そして、バーバラさんが聖書の見返しに書いていたという言葉に目が留まりました。
「主よ、私は自分のためには何も求めません。」
神のために生きること。神が配剤してくださっているものの中で、神の御思いを目いっぱい生きること。これからさらにそちらに向かって行こう、と思いましたが、同時に、それは楽しくて豊かなものであることに気付きました。
どかどか上がりこんで宴会を始めそうな招かれざる客には、帰っていただこうと思っております(^^)
不思議なことに バーバー姉妹は 私達が最近いつも会っている人みたいです。
「主よ 私は自分のためには 何も求めません」これホントに 泣かせます。
死と復活、この中に大変な宝が無限にひそんでいる。真に奥深い魅力があるのです。
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