2012年2月4日土曜日

内なる人、外なる人、最も外なる人

メール有難うございました。
・・・
人とは実に複雑な存在ですが、
「本当の私」とは実は私の霊です。
これがペテロが言う「内なる人」です。
しかし、その私の霊という部屋の、さらに奥に、
聖霊という、完全な女主人のように、天の英知に富み、
とても静かで上品なお方が(おられないかのようにして)
チャンとおられるのです。

ところが
私の部屋の外側の部屋には、「感情」と「思い」
という「外なる人達」が「あからさまに」いるのです。

彼等は、自分がまるで主人か神かのようにして結構
身勝手にふるまい勝ちです。それは私たちが、
何の疑うこともなく「この人たち」を自分の中心
であると、長い間信じて来たからです。

しかし、私たちがクリスチャンになった今となっては
彼等は、自分の部屋に静かに控え、大人しく待機しているべき
であり、衝動的な「一人走り」など許されてはなりません。

さて私が、
奥の女主人の極めて静かな「命令、意志、お心」を
察知する時に、

(ただし、この命令は私が、自分の胸の鼓動と呼吸をいつも
静かに保っていないと、簡単に聞き逃がしてしまうでしょう。)

その女主人の命令を、自分の意志としてシッカリと受け取り
「主よ、私は今あなたの意志を自分の意志として行います!」と
「立ち上がって」外の部屋で控えている思いと感情に命じ
それを実行させるのです。

その時には、「最も外なる人」である私の体も
思いと感情に従って「自然に無理なく」ついて来るでしょう。

さて女主人は、実を言えば、とても力のあるお方であって、
上記のように私が立ち上がった瞬間に初めて、天的で不思議な
力を、私の魂と体にさえ送って下さいます。だから私の魂と体は
実に妙なる方法で、日常生活のただ中においても、みこころ(神の
意志、神のよろこび、神の幸福)を実行できるのだと思います。

それはその時「霊、魂、体」間にあるべき本来の調和が
「自然に無理なく」現れるからです。

以上のことを、顔を洗い、トイレに行く時でさえ(まずは呼吸を
整え「主よ私の取るべき、あなたの「みこころ」は今何でしょう
か」と言いながら)毎日練習し続けるならば、日々無数の
「つまらない時」が総てたちまち、素晴らしい「神の訓練の時」と
変わってしまうのではないでしょうか。神からご覧になると、
私たちの24時間に、無駄な時間など一瞬もないようですね。

PS:
聖書では、非キリスト者をも含め、普通は、上記の
「外なる人」即ち魂を「人」或は人の「自己」と呼ぶことが
むしろ多いですし、これが普通一般の見方でもあります。

また注意するべきは、神は直接、外なる人(魂、即ち、思いや
感情)や最外部の体に、ご自身のみこころを示すことはあり得ず、
そんなことをするのは神の敵、悪霊である、と言うことです。

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