2010年7月7日水曜日

山暮らしのキリスト

感謝なことに 私は既に二十歳前に 
「神の永遠の命」をいただきました。

しかし、
ある団体(「教会」)から離脱した後 何と
十年以上も「私にとってとても魅力的に見えた 
この世を愛することに専心した」時期があったのです。

無論 新しく生まれた者は永遠ですから 
それでも私はキリスト者でした。
だから あの当時でさえ 私の意志とは関係がないように
時々「主よ」という「ため息」がわいて出て来るのでした。

その頃の私の勝手な 祈りとも言えないような祈りは
「主よ 私はまだしばらくこの世を愛したいのです。
だからどうか大目に見てください。だから今 
私を突然 殺すことだけはどうかカンベン願いたいのです。
なにとぞ この点だけはよろしくお願い致します。」
というものでした。だから
私はいつの日か 主のもとに戻るであろうことは 私の霊の
中では当然のように感じていた と言えるでしょう。

しかしその十年余 それは真に真に愚かな日々でした。
その愚かさをレンメンと書きつづるならば、面白おかしい
小説の1つ2つはスグにでも書けるような気がしますよ。

しかしついにその時が来ました。と言うのは
私は「本当の心の安らぎ」(絶対にそれはこの世にはない)を
得たかったし、私自体が「永遠の存在」であることは十分に
分かっていたからです。そのことを、私はとても愚かではあったが
「神の何か」を損するほどには愚かではなかった、 
と表現してもよいかも知れません。 

ある日ある時 私は完全に主に戻りました。
そして私はその時「主よただ今私はあなに戻りました」と
言うだけではなく
私に関して父なる神が ハッピーと感じられないであろう
物や事 即ち 私が主に背を向け 密(ひそ)かに心の深くに
大切にかかえて来た「一切」☆を主の足元に投げ出したのです。

正にその日からです。 
主はこの小屋にも住み始められ、私は
日々その表れを次々と見ることになりました。
ですから私の「不思議だ」と言うツブヤキは その日から
今日に至るまで 毎日のように口をついて出て来るのです。
「これは不思議だこれは主だ」というフレーズが
毎日絶えず 私の口からわき出て来るのです。

イザヤ書によれば 
キリストは「ミスターワンダー(不思議)」です。
従ってクリスチャン生活が
ワンダフルであるのは当然のことでしょう。
(ワンダフル=不思議でいっぱい)

キリストは
都会だけでなく山奥にも そして「たった二人っきりでも」
十分に暮らすことがお出来になります。
「山暮らしのキリスト」は本当に「すばらしい」!

2 件のコメント:

電気屋 さんのコメント...

”「主よ 私はまだしばらくこの世を愛したいのです。
だからどうか大目に見てください。だから今 
私を突然 殺すことだけはどうかカンベン願いたいのです。
なにとぞ この点だけはよろしくお願い致します。」”

リアルな証 ありがとうございます。
共感を持って読ませていただきます。

なるほど、ずっと前から変わらずイエスはMr.Sugarさんの小屋の中にはいたのですが、その日から、福島での小屋にも住み始められ(Mr.Sugarさんという壺からあふれて出てきたともいえうかもしれませんが、、)現在に至ると、まさに”私”だけでなく、”私のいえ”も、主にですね。

Mr.Sugar さんのコメント...

本当から言えば
電気屋さんの表現の方が
正確です。

「今現在の自分の普通の生活」を基盤にして
皆さんが キリストを 正にそこから
溢れ出させること、それこそが
キリスト者の生活であり
キリスト者の働きです。

真の礼拝の真の基盤は 人の生活であり
「世に言う礼拝」を守ることでは
ありません。

同時 弟子達や人々が
キリストに接した基盤も
人間らしい普通の生活でした。
(食べたり飲んだり、結婚式にでたり
娘の死に遭遇したり、病気になったり
治療したり
仕事(漁)に出たり、旅行したり、
泊めたり泊まったり・・)

キリストに接ることを今日的に言えば 
私達は人の生活という基盤に立ち、
そこで 霊の中のキリストに
触れることです。

宗教であればどんな宗教でも
その中心は「礼拝」です。
しかしキリスト者は
「キリストの中にある人間生活」をその
中心としなければなりません。
だから結局 礼拝は
24時間であるべきです。

ちょっと興奮しました、ごめんなさい。