2010年3月1日月曜日

礼拝は行為でなく 霊の態度・状態です(1)

*父が求めておられる礼拝*

「この山でも エルサレムでもなく・・
真の礼拝者達が・・霊と真によって礼拝する時・・今がその時です。
父はこのような人々を礼拝者として求めておられる」(ヨハネ4の23)

キリストによると、
キリスト者の礼拝は「霊と真(真実)」によらなければなりません。
ところが人に真実はなく、真実とは実はキリストです。
ですから、「礼拝する要素」は人の霊の中の復活されたキリストです。
従って「キリストと一つにされた人の霊」を用いずして
礼拝をすることは不可能です。

キリストは今日復活の中にあるのであり 時空を越えます。
ですから「真の礼拝」は「場所と時間を定めた
ある方式や行為(こうい)」ではありません。そうではなく
礼拝は 神に対する「霊の ある態度や状態」です。

従って体のある行為によって「礼拝を済(す)ませ」たり
「礼拝を守ったり」することは不可能です。少なくも
それらは、今日父が求めておられる礼拝ではありません。

それでは そのような「世に言う礼拝」とは一体何なのでしょう。
それは いわば「異種類の礼拝」とでも言うべきであろうと
私は考えております。

そうです、「異種類の礼拝」というものがあるのです。 
その礼拝は決して 異なる神や悪霊を拝む礼拝ではありません。
人々がその礼拝を評価する理由は それが「絶対的な唯一の神」を
拝する「厳粛(げんしゅく)で立派な」行為であるからです。
しかし、問題は 神ご自身も そのような礼拝行為を真に
評価されるであろうか、と言うことです。

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