2009年9月30日水曜日

工事近況

早、山は朝晩 完全にストーブです。
紅葉もチラホラ始まっていますよ。

あさって、下山します。
次回の入山はいつになるのか 今は分かりません。

*
今回 ロフトデッキの巨大ベンチの防水用トタン板を
実家の近くにあるジョイフル本田(千葉ニュータウン店)で
調達しようと思っております。
ブルーシート防水は止めて、いきなりトタン板を張って 
接合部分は強力な防水テープで、と考えております。

東側の3間もある超ロング「霧よけ」と
南デッキの雨漏りがする透明屋根材の入れ替えも
何と ふってわいたような村の仲間の協力を得て終了したのです。
これで雨漏りは完全に無くなりました。雨漏りがないというのは
実に気分がよくハッピーなものです。

屋内壁の仕上げ材ですが、
石膏ボードにペンキ、というのは意外にも相当面倒なんだそうです。
(そうとは知りませんでした)そんなに面倒なら、いきなり塗れて、
しかもとても美しい上に健康にもよい漆喰(シックイ)で
いいではないか、と今考えている所です。

パソコンも車も変わりました。
車はニッサンAD、ライトバン、貨物自動車、
もちろんパソコンも車も 格安の中古です。

今日はこれから 真冬の凍結防止のため、水道管を
断熱材で巻く作業をします。

*
漆喰というのは
人類が古代から使用している とても優秀な完全自然素材です。
「白く塗った墓」の白さの正体は多分 漆喰なのでしょう。

ある記録

ある人が月に行きました。
だから確かに 人類は月に行ったのです。
これもやはり 世界の公認記録です。
(しかし、疑う者もいます)

ここに もう一つの記録があります。
それは、 
ある人が
・人生に悠々と打ち勝ち
・死を粉砕し、
・時空と物質を超越した 
という 天地の公式記録です。

時空と物と人生はサタンの仕事場であり、
死は サタンにとって、彼の総ての力を引き出す 
虎の子の金庫です。
だから今やサタンは「人の子」において
その虎の子は爆破され 職場が壊滅したのです。

「サタンよ、あなたはこれからどうするの、
後はもうウソをつくしかないね。」

2009年9月29日火曜日

サウロのキリスト者破壊活動

当時 キリスト者達をおそった破壊的環境は 相当部分、サウロの
「ナザレ人一派」に対する激しい敵意によってもたらされた
と言っても過言ではないでしょう。
しかし賛美します。以下のいくつかの聖句の中にさえ、既に破壊現象
から萌芽する復活現象を見るのです。

・「人々はステパノを石で打ち殺した。証人達は自分達の着物をサウロ
という青年の足元に置いた。」(使徒7の57)
・「サウロはステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの
教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤと
サマリやの緒地方に散らされた。・・サウロは教会を荒らし、家々に
入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。他方、散らされた
人達は「その言葉」を述べながら巡り歩いた。」(8の1~4)
・「ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は
フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行った・・・主の
御手が彼らと共にあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。」
(11の19、21)

さて、先先回に述べた エルサレム教会の中にあって キリスト者の中に
存在し始めたであろう「エルサレム的固定、安住」志向に対して、
何と神は たちまちの内に破壊的と言えるほどの環境を許されたのです。

しかしながら かように強制的な「脱エルサレム」をさせられた
キリスト者達に対するサウロの情け容赦のない破壊行動は 
それでも止むことはなかったのです。

・「サウロは、なおも主の弟子達に対する脅かしと殺害の意に燃えて、
大祭司のところに行った・・それは「この道」の者であれば男でも女でも
見つけ次第 縛り上げ・・投獄するためであった。」
(9の1、2)

2009年9月28日月曜日

破壊的環境

先回述べた「破壊的環境」は殆どの場合 神からでなく、サタンから来ます。
しかし神はその破壊的環境を復活のチャンスとされるのです。この事実を
「神はサタンの破壊的環境を敢えて許されることもあり得る」と表現する
ことも可能でしょう。正にこの点にこそ 旧新約聖書全般を貫いて見られる
神の計り知れない知恵があるのです。

神をまだ知らない人の場合、彼は自分に訪れる破壊的環境を 
サタンの手から受け入れるしか方法がありません。しかしキリスト者
には 悲劇的な環境でさえ「神の手から受け入れる」と言う 
すばらしい方法が残されているのです。

*
その受け入れ方には二つあり、一つは命による場合であり、他は死による
方法です。(しかしキリスト者の場合、死は命に至り、命は死に導く
のですから、両者は一つであるとも言えます)
前者の場合、あなたは立ち上がり、環境の背後に潜むサタンの策略に
キリストによって対抗しなければなりません。(エペソ6章)

後者の場合、あなたはその環境を神の手からいただき、あなたが既に
共にあずかっているキリストの死の原型の中で キリストの死を
その環境と自分に適用し、その環境と「その事態の中でどうする
ことも出来ない自分」に対して死ぬのです。そうするならば、
あなたは必ずキリストと共に復活するでしょう。

その方法によるならば、例えば
「敵にそそのかされた失敗」による悲しみでさえ 神のみこころにそった
「素晴らしい悲しみ」と変化するでしょう。それは 悔いのない救いに至る
悔い改め という「復活現象」をあなたの中に生じさせるからです。
しかし(信仰を機能させない)悲しみはただ、(復活のない)死と 
更なる不信をもたらす結果となるでしょう。(Ⅱコリント7の10)

2009年9月27日日曜日

配給事件とステパノ事件(3)

「ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は
フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行った。・・・
主の御手が彼らと共にあったので、大勢の人が信じて
主に立ち返った。」(11の19、21)

神の意図したエクレシアのあるべき姿は 安定、固定的、そして
エルサレム的ではなく、流動的、拡散的です。聖書と他の記録を
見るとき、人の根強い固定願望に対抗して 神は破壊的とさえ
見える方法を用いて、その御こころを現されたことを見ます。

ここで間単に ステパノ事件が 神によってどう用いられたのかを
箇条書きにします。
①普通のキリスト者の脱エルサレム、流動的、拡散的生活によって、
神のことばの大いなる前進を見た、
②その結果、エルサレムから遠く離れた異邦の地、アンテオケが
更なる脱エルサレム、拡散の基点とされた、
③パウロに対して極めて甚大な影響を与えた、
④パウロの伝道は 普通のキリスト者こそ主役であることを知らしめ、
彼らをして脱エルサレム的、脱ユダヤ教、脱この世、そして流動的、
拡散的にさせることであった

パウロの死後、数年を待たずして、エルサレムは町も人も徹底的に破壊
尽くされ、キリスト者のみならず、ユダヤ人でさえ、総てエルサレムから
追放され 世界中に拡散されることを神は敢えて許されました。

人の切望はこの世に根付くこと、固定、安定です。
しかし神は人を地に安住させません。キリスト者ならずとも 
わずか100年間 自分をこの世に固定することさえ至難の業です。

2009年9月26日土曜日

給食事件とステパノ事件(2)

給食事件の後 エルサレムにおいて、神のことばは益々成長
しました。(この事実をルカは僅か一つの節の中で述べています。)
しかしここにさえ一つの誘惑、問題があり得るのです。
それは 生来の人の魂が持つ繁栄、安定化、固定化への「根強い」
願望です。しかしながら、何故それらの願望が神のみこころではない
のでしょうか。キリスト者の繁栄、安定化、固定化を どうして神は
喜ばれないのでしょうか。

何故なら、それらは総てキリスト者をして この地に強く根を張る者、
黙示録の言う「この地に住む者」としてしまうからです。
十二使徒をいただき 多くの信者を有する中、役割分担の確立、
「人間への権威付け」等にともなう繁栄感は 彼らに もしかして
「この世の春」の到来のようなものを感じさせたかも知れません。

*
しかし、エクレシアはそうであってはならない筈です。それは常に
「小さなからしだね」という「来年」への希望さえ持つことのない
一年草の命に留まるべきです。

しかし、なんと言うことでしょう。神の敵はいつの間にか 神の御わざの
「かかと」に忍び寄り その一年草の野菜をいつの間にか 天に向かって
きつ立させ、空中の無数の生き物を宿らせる大きな木にまで、肥大変質
させようとしたのです。それは地上の人々の目にさえ直ちに
「これは天国」と見える 葉の生い茂る外観を有するでしょう。

しかし、私達はそうであってはなりません。地上に現れる
エクレシアにある天国は ただ澄んだ目によって捜さなければ
発見出来ない、純粋な隠された小さな命 「小さな群れ」であるべきです。

2009年9月25日金曜日

配給事件とステパノ事件

エルサレムに出現したエクレシアに ある問題が発生した際、
十二使徒は言いました。(使徒の働き6章)
「私達が神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは
よくありません。・・・私達はその人たちを この仕事
(食卓のこと)に当たらせることにします。
そして私達は、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
(ステパノはその際、その食卓担当者として指名されました)

当然 これらのことばは聖霊に確証され聖書に記載された神のことばです。
そうであればこそ、このような言葉に接する時、私達はたやすく
権威主義を伴った画一的固定観念を築き上げてしまう可能性が
あるのではないでしょうか。

しかし神のことばは 単なる文字ではなく、一面エクレシアと共に 
ブドウの木の枝先端の 繊細なツルのように日々生き生きと成長して
行くべきものです。

従って神は「配給事件」の後、敢えて直ちに次の7節において
「こうして神のことばは、ますます成長し」とルカに記述させたのです。
(7節)

更にそれに留まらず 次の8節以後、聖書はあの有名な「ステパノ事件」を
直ちに見せているのです。そこにおいて神は 食卓の奉仕ではなく、
ステパノをして 極めて重要なみことばの奉仕に従事させたのです。

ここに確かに 絶対的にしゃくし定規でない聖霊の働きを見ます。
従って 神のことばを語る専門家などあろうはずがありません。

2009年9月24日木曜日

主イエスと私達

彼の完璧な贖いの故に 既に今でさえ
神の目に 私達は主イエスと全く同じです。

しかし、区別はあります。
彼は私達がいなくとも 永遠に聖です。
しかし私達は今でさえ 
もしも彼がいなければ直ちに汚濁と滅亡です。

更に
彼は永遠に「ほふられたばかりと見える子羊」です。
彼の体の傷跡はとこしえまで消えることはないでしょう。
しかし、私達は永遠に完全であり、無傷です。

★
昨日、ベンチの北側の一部が姿を現しました。
この「棺おけ状の」大きな箱の上部をビニールシートで覆い、
その上にトタン板をかぶせ、さらに人工芝で仕上げます。
腐食を防ぐ為の防水というのは なかなか難しいものです。

2009年9月23日水曜日

冬が来る前に

冬が来る前に、冬支度の工事と外の工事をする積りですが
結構それだけでも大変です。ざっと考えて見ても
・ロフトのデッキの巨大ベンチを作る事と床のメンテナンス
・水道管の保温のため、管を断熱材で包むこと
・居間の西壁を「ぶち開けて」採光用の窓を二つ設置すること
等があります。
やれやれ、内装はまたまた延びることになりそうです。
今日、午前は小雨の予報、工事は午後になるのかな。
PS:
巨大ベンチ、昨日5mと書きましたが、計ってみると何と
9・1mもあったのです。

神のことば=エクレシア

使徒行伝を見ると
「こうして神の言葉は、ますます成長し」
「主のみ言葉は、ますます盛んになり広まっていった」
「こうして、主の言葉は驚くほど広まり、ますます力強くなって
行った」などの記述が、この書の要所要所に見られます。
昨日の「交わり」の場合のように ここにおいても「神の言葉」や
「主の言葉」の所に「エクレシア」をはめ込むことが可能のようです。

それでは、この「神の言葉」とは具体的には何でしょう。
それは 今日私達が見聞きする聖書やメッセージのようなもの
でないことは明らかです。当時一般の兄弟姉妹の手の中には
旧約聖書さえなく、当然 新約聖書はまだ存在しませんでした。
それではその無数の広がりを見せた主の言葉とは具体的には
何なのでしょう。それは一般の兄弟姉妹の日々の生活の中に存在した
無数の「交わりの言葉」以外の何ものでもないと思われます。

従って その当時「広まって行ったもの」と言うのは「エクレシア」
なのであり、実際的には「交わり」の中の「神の言葉」であったのです。
エクレシアの実質とは「今日の不思議な天地におられるキリスト
そのお方」であり、そのキリストは具体的には 普通の兄弟姉妹達
による「交わり」の中の「神の言葉」として生き生きと表現されたのです。
それこそがキリストのからだ、エクレシアの実際的な時空への表れです。

当時、神の国 即ち「王キリストの聖なる支配の領域」は
名も無き無数の兄弟姉妹間の交わりの中の神の言葉として
「日々成長し、驚くほど広まり、力強くなって行った」と思われます。

2009年9月22日火曜日

今日から巨大ベンチ作りです

昨日の作業はコーキングでした。それはゼリー状のもので 塗布すると
次第に硬くしまり、隙間などの ちょっとした防水に極めて効果的です。
以前と違い今その性能は相当よくなっているようです。とても安価であり
取り扱いも簡単なので、家庭での使用も十分可能です、お試しあれ。

防水工事は昨日でいったん中止し、今日から、眺めのよいロフトの
デッキに長い巨大なベンチ(5mはあるでしょう)を設置する工事に
かかろうかなと思っています。今日は曇天、少し冷たい風が吹いています。

この交わり=エクレシア

コンスタントな聖書の通読は必要です。新約の場合、
今「使徒の働き」を読んでいます。

※
皆は心を一つにしてソロモンの廊にいた。他の人々は一人も「この交わり」
に加わろうとしなかった。(使徒5の12、13)

ここの「この交わり」を「エクレシア」という言葉に代えて そこに
はめ込んで見ても そんなに遜色がないことが分かります。ですから 多分
その当時、「エクレシアの実際的内容」は「この交わり」であった と言える
でしょう。更に「その交わり=エクレシア」という大胆な公式さえ可能かも
知れません。(当然、交わりはお付き合いやおしゃべりではありません)

*
さて、「その交わり」と「他の人々間の付き合い」の間には ある壁
のようなものが厳然として存在していたようです。その壁を含む内側は 
他ならぬ 今は目には見えない「その霊なるイエス御自身」でした。

その感知できない霊なるイエスを「低くされた心と信仰」によって
捕えた人々は、結果として何の無理もなく「自分もその交わりの中にいる」
と「感知できた」のです。しかし不思議なことに 他の人々は「彼らを尊敬
していた」にもかかわらず そこに名状しがたい ある違和感を覚えざるを
得ませんでした。

実際的レベルにおいて「その見えないエクレシアの範囲」こそ「聖なる領域」
であり、キリストのからだに他なりません。イエス御自身の中におられる
神だけが 唯一聖であられるからです。残念ながら、この範囲・境界ライン
について論述し尽くす完全な人の言葉を私は知りません

2009年9月21日月曜日

霧よけの防水工事

おととい完成した「霧よけ」をトタンでカバーしてもらうべく昨日
業者に来てもらったところ、何と何と私のミスで、その施工は全く不可能
であることが判明したのです。これは相当ガッカリです。なぜならそれは 
完成したものを総て解体し、一から全部やり直すことを
意味しているからです。

しかし、その時、業者に高い金を払うことなく、かなり難しいとされる
防水工事を可能にする ある施工方法に気がつくことが出来たのです。
これは私にとって極めて感謝なことでした。

★
神はラバンに
「あなたはヤコブと、ことの善悪を論じないように気をつけよ。」と
語られました。私達は「ことの善悪」でなく、神の御こころと
「神の御こころの人」に気をつけるべきです。

*
ルカ24の31には
エマオに向かう二人の弟子に復活のイエスが現れ、いろいろと語られ
ましたが、その後「イエスは、彼らに見えなくなった」と書かれています。
ここで大切なことは、 
イエスは彼らに「見えなくなった」だけであり イエスの臨在が彼らから
奪い取られたわけではない、ということです。無くなったのは「臨在感」だけ
であり「臨在の事実」には何の変化もありません。
見よ、私は世の終わりまで「いつも」あなた方と共にいるのである。
(マタイ28の20)

2009年9月20日日曜日

高所作業

聖書は不思議です。
特に新約聖書、その「奥義的啓示」においては。
しかし、それが真に神がなさったことであるならば、
何の不思議がありましょう。

とてつもなく不思議な「今日のキリスト」よ、しかし
「神の能力」を思うとき、そのことに何の不思議がありましょう。
キリストは不思議です。しかし実は何の不思議もないのです。

*
聖書は驚くべき書物です。互いの連絡もなく、時空を超えて多くの
聖書記者が実に多種多様なことを自由に書いています。
しかし、そこには何の矛盾もありません。
何故なら、真の聖書記者は神ご自身なのですから。

だから、私たちにも「人間の」指図など全く不要です。
真のエクレシアに身をおくだけで、私たちに何の矛盾もないでしょう。
何故なら「私達を書いておられる」のも ただ一人の同じ神なのですから。

★
昨日、何と東外壁の長ーい「霧よけ」工事(3間)が終わってしまいました。
これは高所なので、命綱をつけなければならないかなり危険な作業です。
もう危険な作業は全部完了、と実は安心していたのですが、
これからも もう少しは必要のようです。

今日は東デッキ工事をやろうかな、と思っております。ここもかなり
長い間 ほったらかしにしていたので相当腐食が進んでいるのです。

今日もよい天気、神に感謝です。

2009年9月18日金曜日

今日の工事

「西デッキの補強工事」はみごと失敗でした。
また一から出直しです。

昨日はすばらしい天気のもと、懸案の東の外壁の上端に霧よけ
(ひさし)を作る為の足場作りに取りかかりました。
(立場がないと何も出来ない)
きのう私のパソコンのために来てくれたイモクボ氏の
アドバイスもあり、これが意外と簡単、
何と今日中には完成しそうなのですよ。

「案ずるより、生むが安し」とは正にこのこと、
人間、やはりやって見るものですねー。

私たちは一つです

父よ、私たちは一つです、

子よ、私たちは一つです、

聖霊よ、私たちは一つです、

古今東西の兄弟姉妹よ、私たちは一つです、

そして、
今「天地に存在する不思議な ただ一人の人」よ、

私たちはあなたと一つです。

これらは総て、御子キリストの「あの功績」の故、

決して揺れ動くことのない御ことばの故にです。

(ヨハネ福音書14章~17章)

2009年9月16日水曜日

山におります

きのう入山しました。

山の冷た過ぎる空気が足元に忍び込んで来ます。

次回の下山は10月2日あたりでしょうか。
何も無ければの話ですが。

しばらく大工仕事にかかる積もりです。随分怠けた仕事が
山ほどたまっているからです。

入院しているケンは存外よい状態でした。
実は これからのテーマは、どうやって彼を親元から離すか、です。
親はこれから年々確実に衰えるわけで、その算段は一日も早い方が
よいのです。

今用いているのは私にとっては新しい富士通のパソコンです。
嬉しいことに実に快調です(当たり前?)。
確かにメールとインターネットが無いのは不便です。しかし
私のこれからの「パソコンライフ」はどうなって行くのでしょう。

聖霊を通して 今主は明らかに彼の業をこの日本においても行われて
おられると信じます。私も油断する(油・聖霊を断つ)ことなく
彼に付いて行きたいものと思います。

そうそう、あの台湾の89歳の姉妹・楊さんがしばらくぶりで
電話をくれましたよ。相変わらずの「あの元気さ」でした。この所、
台湾は ホンとにいろいろと大変で、失礼しました、とのことでした。
そのうちまた 日本にいらっしゃるかも知れませんよ。

それでは、これから西デッキの補強工事にかかります。
家が完成しないうちに 腐食に対するメンテナンスなのです。

2009年9月6日日曜日

永遠の命とは 知ることです

神の命は 聖書の中でしばしば「永遠の命」と呼ばれています。
この「命」という言葉は原文ではゾーエであり、それは更に高い命、
或いは霊的な命を意味します。総て主イエスを信じる人は 
信じるやいなや再生され、永遠の命を受けます。

永遠の命の役割、機能は何でしょうか?
イエスは言われました。
「永遠の命とは、唯一の真の神でいますあなたと、また あなたが
つかわされたキリストとを知ることであります。」(ヨハネ17の3)

ですから、永遠の命とは、信者が享受する祝福であるだけではなく、
霊的な能力、機能なのです。永遠の命がなければ、私達は絶対的に
神を知ることは出来ず、また主イエスを知ることも出来ません。神を、
キリストを、そして霊的真理を 直覚によって真に知ることは、人の
生来の知性によることはなく、ただ神の命に依存しているのです。

さて、人の中に入った「ホンの僅かなこの命」は 徐々に成長し、発展し
そして遂にはキリスト者をして 真に霊の人へと至らせることが出来ます。
人の再生の後、神の目的の総ては、ご自身の霊を通して、多くの人が
旧創造に属する総てのものを取り除くことです。そのように、人の中での
神の総ての働きは 完全に霊の中にあるのです。

★
山から下りたら、パソコンが全く動きません。
もうダメだとあきらめていたら昨晩 再び動き出しましたのです。

冷涼過ぎる山から下りて見ると 下の空気は「あ、暖かくていいな」
でした。多分14日まで実家にいます。

2009年9月4日金曜日

☆「死んでいる」の意味

☆
前段の
「神の新しい命の霊を受けない者は、永遠に死んでいるでしょう。」について:
これは「その人の霊はまるで死人のように 神や真の命に対しては全く反応
しない、という意味です。私達は神の命をいただく前 神や真の命に
対しては全く何の反応も出来ませんでした。聖書ではそれを「死んでいる」or
「死人」と表現するのです。しかし、サタン・罪に対しては活発に生きていた、
と言えるでしょう。

それでは 今はどうでしょうか。
感謝します、今私達は 神に対しては生きており 
罪やこの世に対しては死んでいるのです!

★
山はとても寒くなりました。朝晩はストーブをつけています。
今日 多分8時頃の下山となるでしょう。
ケンはまだ入院中です。その病状はいつ好転するのでしょうか。

再生における聖霊の働きの二面(2)

神の命が 人の霊の中に入る時「酔って麻痺したような状態」にあった
私達の霊を生かします。かつては、人の霊は「神の命から遠く離れて」
(エペソ4の18)いましたが、今は生かされているのです。ですから、
たとえ「体は罪の故に死んでいても、霊は義の故に生きているのです。」
(ローマ8の10)

私達がアダムにあって持っていたものは死んだ霊であり、私達が再生の
時に受けたものは生かされた霊です。その時 私達はアダムにあって
失ったものを得ただけではなく、アダムが絶対的に持っていなかった
神の命をも受けたのです。

以上のことを見るならば、私達は自己改善、善行の勧め、リバイバル、
後悔などの むなしさを理解するようになります。人が自分で何を
行おうとも、自分の霊を生かすことは不可能であり、また「新しい霊」
を受けることも出来ません。彼がどれだけ改善しようとも 死んでいる
ものは死んでいるのです。どれだけ彼が修復しようとも、古いものは
古いのです。人は上からの新しい命を受けなければ、どれだけ熱心に
宗教を学び 道徳を実行しても、自分の霊を生かすことも、
新しくすることも出来ません。

神の新しい霊だけが、人の古い霊を生かすことが出来ます。自分の霊を
生かすことを願っても、神の新しい命の霊を受けない者は、永遠に死んで
いるでしょう。再生されていない人は、キリストとは絶対的に何の関係も
ありません(ローマ8の9)。ですから「キリスト信者と言われる人」は皆 
自分は本当に再生されているかどうかを自問するべきです。「神の勝った
命」を受けている人達だけが、神の子供です。神の子供でありながら、
神から生まれていないということは理屈に合わないことではないでしょうか。

2009年9月3日木曜日

再生における聖霊の働きの二面

再生は、一方では人に新しい霊を受けさせ、他方では人の古い霊を
復活させます。再生に関しては、エゼキエル36の26は「私は新しい
霊をあなた方の内に授け」と言い、ヨハネ3の6は、「肉から生まれる
者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」と言っています。

この二箇所で言われている霊は、神ご自身の命を指しています。何故なら、
これは私達が本来持っていた霊ではなく、再生の時に 神によって与え
られた霊であるからです。この新しい霊は神聖なものであり(Ⅱペテロ
1の4原文)「罪を犯すことが出来ない」ものです。(Ⅰヨハネ3の9)

所が、人が本来持っていた霊は生かされ、生まれたとは言え、依然として
汚されているかも知れず(Ⅱコリント7の1)、聖別される必要が
あるのです。(Ⅰテサロニケ5の23原文)

☆
この箇所は少し分かりにくいようです。
私は次のように整理しますがどうでしょうか:

御言葉によると、再生の際、聖霊の働きには二面があります。先ず、
人の死んだ霊を生かします。しかし、それでは不十分です。何故なら
「人が本来持っていた霊は依然として汚されているかも知れず
(Ⅱコリント7の1)聖別される必要がある」からです。(Ⅰテサロニケ
5の23原文)ですから、神は次に「新しい霊をあなた方の内に授け」ます。
しかしながら、実際にはこの二つの聖霊の作業は再生の瞬間 
同時に行われます。ところが、聖別の作業はそれ以後も継続して
必要とされる筈です。

★
今日は下山の為の準備をします。下の生活で注意しなければならないのは
運動不足です。それで、今回 小屋にある粗末なマウンテンバイクを
下に持って行こうかなと考えております。
今日、阿武隈は雨模様です。

2009年9月2日水曜日

再生の必要

しかし堕落した霊としての人には体があり、人の堕落は人を肉的なもの
としました。創世記6の3において 神は「真に人は肉である」とさえ
言っておられます。「He indeed is flesh.」(ダービー訳)

この世の宗教も倫理も文化も法律も この堕落した霊を改善することは
出来ません。今や人は 堕落した肉となってしまったのですから、
何ものも再び人をして本来の霊にならせることは出来ません。

ですから人にとって再生、霊の再生は絶対的に必要なことです。
ご自身の血を流し、私達を罪から清め、私達に新しい命を与えられる
神の御子だけが、私達を神へと連れ戻すことが出来るのです。

罪人は主イエスを信じる時に再生されます。神は罪人に ご自身の命
(創造されたことのない命)を与え、罪人の霊を生かします。罪人の
再生は霊の中のことです。

神の総ての働きは、人の霊の中で始まり、中心から周辺へと至ります。
それは外側から内部へと働くサタンとは根本的に異なっています。

☆
「ご自身の命(創造されたことの無かった命)」について:
それはヨハネ3の16で言う「永遠の命」です。ですから永遠の命とは
「エンドレスに続く命」にとどまらず「創造されることのなかった
神そのものの命」を言います。

永遠とは、決して今私達が慣れ親しんでいるこの時空のエンドレス状態
などではありません。時空はある目的の為に神によって創られた単なる
被造物の一体系であり「四隅を持つ」限定された世界に過ぎません。
「真正な」私が、即ち私達の内側にある再生された霊が 心から求めている
ものは ただ物質からなる そのような「矮小な世界」ではない筈です。

「永遠の命とは 単にエンドレスに今の命が続くだけであるならば、私は
そんな命は要らない」とある兄弟が言われたのは けだし名言です。

★
壁工事、結構楽しいものです。あさって、下山します。

2009年9月1日火曜日

堕落した霊(2)

明けの明星としてのルシファー(サタン)は神によって創造され、彼は
神と直接 交わることの出来る卓越した霊でした。

ところが彼は堕落し、暗闇の権威を持つリーダーとなり 神と神の総ての
徳から分離されてしまいました。しかしながら彼は、決して その分離の
故に、彼の存在を失ったわけではありませんでした。彼は彼が持つべき
本来の神との正常な関係を失ってしまったのです。サタンが堕落の故に
失ったもの、それは唯一 彼が本来持っていた神との正しい関係でした。

それでは人はどうでしょう。人もサタンと同じように暗闇の中に落ち込み、
神から分離されました。にもかかわらず、サタン同様 人の霊は依然として
存在しております。現在、人の霊は神から分離されているという理由の
故に 神と交わることは不可能であり、自分の霊が自分全体を支配する
ことも出来ません。要するに 人の霊は「死んでおり」その正常な機能を
失っているのです。

ここに一つの厳粛な事実があります。それは罪深い天使長の霊が永久に
存在するように、罪深い人の霊も永久に存在し続けるということです。

★
台風一過、今時折吹く少し強い風も爽やかな、秋晴れの朝を迎えました。
今日も 居間の壁工事を頑張るつもりです。

2009年8月31日月曜日

堕落した霊(1)

何故、人・罪人は再生、新生される必要があるのでしょう。
何故、人は上から生まれて、霊の再生を持たなければならない
のでしょうか。
何故なら、人は堕落した霊であるからです。人は、堕落した霊として、
新しい霊を受けるために霊の再生を必要とするのです。

サタンとは何でしょうか。サタンとは堕落した霊です。そして人も(体を
持っている点では彼とは異なりますが)やはり堕落した霊です。

サタンの堕落は、人の堕落の遥か以前に起こりました。そのサタンの堕落を
知ることによって 私達は人の堕落の本質を知ることが出来るでしょう。

☆
人は魂と体においてのみ堕落しており「霊は初めから清い」とするのは
間違っているようです。(確かに人の霊は、ある意味で「ある聖域」には
違いないのですが)

人は霊においてさえ堕落している と聞くと私達は問題の深刻さを覚えない
わけには行きません。更に その堕落の程度はサタンの堕落の深さにまで
達するとするならば ある絶望感をさえ覚えるのです。人は神の前に 
その全存在、霊・魂・体において堕落しているのです。

★
工事のこと:
これからの壁と天井の素材は 全部石膏ボード、床は野地板で
済ませることにしました。いろいろと考えたのですが、この結論が一番
手間がかからず 安価であるからです。何故か今、工事に対する意欲が
出て来たのは不思議です。

2009年8月30日日曜日

救いとは何でしょうか(2)

被造物は真の救いが適用される前に無にならなければなりません。
従って、真の偉大さは、私達がどれだけ多くを得たかにはよらず、
私達がどれだけ多く失ったか によります。

真の命は人の自己が失われる中にのみ見られます。もし被造物の天然の
性質、命、行動が全く捨てられていないなら、そこには神の命が表される
場所はないでしょう。私達の自己はしばしば神の命の敵です。もし私達が
自分のための意図や経験を失わないならば、私達の霊的な命は
大きな損失を被るでしょう。

☆
「被造物は真の救いが適用される前に無にならなければなりません」:
このことの前提は永遠の中に存在するキリストの十字架(死の力)です。
それを「私の」事実として認めること、即ち キリストとの一つの中で
私の旧創造は既に死んでいるという神のことばに対する信仰が必要です。
次にその事実に基づき 私の具体的な「捨て去る」という意志と行為が
要求されます。そうする時に初めて 永遠の「死の力」と「復活の命」が 
時空の中にいる私において その効力が発揮されるのです。

親鳥の飛翔への促しに「応じる」ヒナ鳥の「信仰と意志と行為」はやはり
必要です。それは それまで ヒナ鳥にとって 総ての拠り所であった
「古き巣穴」を勇気をもって捨て去ることであるとも言えるのです。

*
「真の命」「神の命」「霊的な命」:
命という言葉の響きはあまりに美しいので、それは人の注意の上空を通り
過ぎるばかりです。即ちそれは キリスト者が命という言葉を聞く時 
ウットリとしてしまい その真の意味を自分に適用して考えることを忘れる 
ということです。このような例は結構 多いのではないでしょうか。さて、

「神の命」とは「神が与えられる私達のための生きる力」ということでしょう。
また「真の命」とは「本当の生きる力」であり、「霊的な命」の意味は
「物質界や人の世界にはない 上からいただく実際的な生きる力」
とでも言うべきものでしょう。

それでは今日 私の命、生きる力、生きるエネルギーの源はどこにある
のでしょうか。今現在 私の生きる力の源泉は一体なんでしょう。
果たして私は「キリストのみが真に私の命である」と言えるでしょうか。

PS
「キリスト、私の命」の意味は
「キリストは私の大切な人」だけではありません。

2009年8月29日土曜日

救いとは何でしょうか

救いとは何でしょうか。
救いとは神が人を、人自身から救い出して、神の中にもたらすことです。

救いには 終結(終わらせること)と結合の面があります。自己に終結
して、神と人が結合します。人が人自身から 神との結合の中へと救われる
という目標を持たない、どのような救いの方法も真のものではありません。
即ちもし人を彼自身から神との結合へともたらすことの出来ない救いの
方法は、単にむなしい言葉に過ぎません。真の霊的な命は、肉体的な
命から切断されて神聖な命の中に入ることです。

被造物に属する総てのものは 出て行かねばなりません。被造物である
私達は 真の救いを得て ただ創造主ご自身の中にある「創造主である
総て」を享受するようにと召されているのです。

★
相変わらず私のパソコンは変です。しかし時に このように何とか
動くのです。

私は今「なぜか」大工仕事にせいを出しています。
主はどの程度まで、この小屋の工事を進めさせるのでしょうか。
その点は 私も大いに興味のあるところです。

2009年8月25日火曜日

早朝だけ動いてくれるパソコン

これを書いていても
いつプチンと消えるかもしれない私のPC。


昨日は ある聖徒の真の信仰を見せられた至福の時あり。

今日はマルシア家 最後の山の日。


余りに広過ぎる薪ストーブの硬い炉台を壊し

愛莉チャンがゴロンと横になれるスペースを大きくしようと 

きのうその工事に着工したのです。でも、

考えて見ると 来年の夏は 彼女はもう立って

走り回っているのですよ。

ま でもいいか、

居間が広くなるのは 皆さんの為にもよいことです。


山はもうすっかり秋、

今このロフトのマイルーム 

上は長袖 二枚重ねないと とても寒いのです。

2009年8月24日月曜日

9月3日まで山にいます

パソコン、今、たまたま動いています。
間もなく、また だめになるでしょう。

*
今完全に、マルシア夫妻の、

生後6ケ月の愛莉チャン中心の生活を送っています。

今日は 彼女とグリーンパークの子馬を見に行きましょう。


「まだ罪と自分を知らない存在」が現に本当ここにいる、

という小さな驚き。

彼女は 罪を犯さない、ではなく

罪とは何かを根本的に知らない、

自己を抑えるではなく「自分」という意識が根本的にない。

彼女には 自分とあなたの境界がないから

彼女に触れる一瞬だけ、私も赤ちゃんにされる至福。



私もこのようなお方・イエスを写したい。

そのようなお方が 現に本当に私の中におられるから。

2009年8月21日金曜日

パソコンが壊れたようです

8月4日の朝まで山におります。

こうやって使っていると突然パッと消えてしまいます。
それで今 慌てて書いているのです。

2009年8月20日木曜日

指導的な人々でさえも

聖霊と信者の霊(3)

多くの場合、今日キリスト者の指導者達でさえ、
・自分の霊が一体何を要求しているのか・霊は神のためにどのようにして
「よき事」を開始するのか、また・どのようにして自分の霊を養ったら
よいのか を知りません。また彼は・霊の感覚とはどういうものか、
そして・その霊の感覚が何を表現しようとしているのか が分かりません。

別のあるキリスト者は更に高く、より深い霊的経験を求めます。しかし、
十字架の適用についてある程度知っている彼らとて「罪に打ち勝つ」経験を
した後は ある満足に到達してしまい、もはやそれ以上霊的に前進する
ことをやめてしまう場合が多いのです。

何故でしょう。それは彼らが霊の働き、霊の機能を知らないからです。
そして彼らが何を追求するかと言えば、
・彼らの思考の中で「霊的、聖書的な知識」を求めます。そうでなければ、
・感情の感覚の中で、また自分の体・自分の肢体の中の
燃えるような感覚の中で「主の臨在」を追求します。そして 
・自分自身の意志の力に従って行動し、ふるまいます。しかし、私達は
以上の経験は総て 人の「魂の働き」であることを覚えなければなりません。

そのような魂の働きの結果は何でしょうか。それは 彼自身を欺き、
彼の魂的な経験を過度に強調させ、彼の「自己」を極みに至るまで増長
させることに繋がるのです。そして彼をして 自分の経験は 霊的に素晴
らしいと感じさせ 遂には自分はとても霊的な者である と思わせるのです。
そのことは 彼の真の霊的な成長を完全に停止させる結果となるでしょう。

従って私達は、神の前に全くへりくだり、自分自身を聖霊と聖書の
教えに服従させ 日常生活における自分の経験において、霊の機能と働き
とを少しずつ調べ 霊について一歩ずつ着実に学ぶようにするべきです。
それは私達が 真に霊に従って歩み始めるためです。(先人の言葉より)

☆
以上の三篇は「霊に関する論述」の為の序文の内、その更に
小さな序文と言うべき部分です。

2009年8月19日水曜日

魂と霊の状態

聖霊と信者の霊(2)

再生されていない人の場合、その霊と魂はどのような状態でしょうか。
それは 彼の霊と魂は一つに構成されている、と言ってもよいでしょう。
従って彼は、極めて強力、力強い魂の感覚を知っているだけであり、霊の
存在に気づくことはありません。彼の霊は言わば「仮死状態」であり、
よく言って 眠っているのです。

このような霊に関する無知は彼が罪人となった時に始まり(即ち肉体の誕生
から始まり)そして殆どの場合、二度目の誕生・キリストを信じ、新しく
生まれた後でさえ続きます。(再生によって、キリスト者の肉が清められる
ことはあり得ません。その状態は未信者と同じです。)

しかし、彼は教えられて、自分の中に霊を持っていることを知ります。そして
当然、彼はその霊の中に命(それをもって生きる力)が与えられております
ので、時に彼は「肉的な事柄」に打ち勝つ経験を持つ場合もあるでしょう。
しかし残念ながら 彼にとってそれらの経験は偶発的なものに過ぎません。
彼の生活はその殆どがまだ、彼の魂や体が彼の全存在を導いていると
言わなければならないのです。

キリスト者は本来、彼の霊の中の聖霊が 彼の全存在の主としての地位を
確立し、聖霊が常時彼の霊を導き、そしてその霊が彼の魂を従え、
その魂が彼の体、全存在を支配するべきです。これが人の正常な姿です。

しかし今まだ 彼の霊と魂は一つに構成されています。即ち彼の魂は霊と
一つに絡み合い、霊を取り囲み、霊を抑圧し その結果 霊が正常に機能
することは殆ど不可能です。即ち 強力な魂の命が彼の全存在の頭、主と
なっているのです。それどころか、彼という存在の最も外側にある「体に
ある肉的な命」が魂の命を圧倒してしまうことさえ まれではありません。

この現象を多少大げさに表現するならば、それは完全な「不法」
無秩序状態であり そこにこそ、人類に見る大混乱の根が存在している、
と言えるでしょう。

2009年8月18日火曜日

聖霊と信者の霊(1)

今日のキリスト者の間で最も欠けている「知識」は、人の霊の存在と、霊の
機能に関するものです。多くの信者は、自分の思い、感情、意志の他に、
自分の中に霊があることを知りません。

人の中に霊があることを聞いた後でさえ、彼らは思い、感情、意志を
霊であると誤解したり、或いは困惑して、自分の霊がどこにあるのかが
分からないのです。霊に関するこのようなキリスト者の無知は
とても深刻な問題です。

このことの故、信者は 根本的にどのようにして神と協力し、自己を支配し、
サタンと戦ったらよいかが分かりません。というのはこれら三つのことには
総て「人の霊」の働きを必要とするからです。

信者が知るべき最も重要なことは、人の中には
思いの中の思想、知識、想像、
感情の中の感覚、愛、欲望、
意志の中の考え、意見、決定の他に、
厳然として「霊がある」ということです。

霊は思い、感情、意志よりも更に深いものです。信者は自分の中に霊がある
ことを知るべきであり、また、霊の感覚、霊の働き、霊の力、霊の活動の
原則も知らなければなりません。

そのようにして、初めて信者は いかにして肉的な魂や体に従ってではなく
霊に従って歩くかを知ることが出来るのです。

☆
ここで数回だけ「感覚の生活」を休み、先人の著書から
「聖霊と信者の霊」に関する概略を見たいと思います。

「霊を知る」は「魂と体を知る」とは完全に異質です。何故なら、
人の霊は、物質と魂の創造者「創造されることのなかった神の聖霊」と
極めて密接な関わりがあるからです。そこには
「神直接の護衛」があると私は考えております。従って
神に対する従順を無視し 単なる物質に過ぎない頭脳のみによって、
人の霊を知ることは「人類史上」かつて一度もあり得ないことだったのです。

2009年8月17日月曜日

その祈りが聞かれないだけでなく・・

*感覚の生活(9)

このような経験の中に入る時、多くのキリスト者は霊的に前進することなく、
後退します。彼らは心ならずも、そのような悲しむべき状態に落ち込んで
しまうのです。そのようなとき、彼らは自分の本分をさえ 軽んじ勝ち
ですが、その理由は そこには素晴らしい感覚がなく、冷淡な感覚しか
ないからです。この時期、このように彼らは総てにおいて
「自分の感覚」の支配と影響を受けてしまいます。

以前、彼らの行いが変えられたのは感覚の中ででした。所が今それより
ずうっと前の状態に戻ってしまいました。彼らの感覚が素晴らしいとき、
自分のように振舞わない人達を見て 気の毒に感じたのでしたが 今は
彼らと何も異なりません。彼は今、はるか以前と同じように、おしゃべりで、
軽薄で、遊ぶのが好きです。彼らは一度変化を経験したのですが、既に
それは過去のものとなってしまいました。

*
信者が幸いな感覚を失う時、彼は総てを失ったと思います。彼らは主の臨在
を感じないと、主は一緒におられないと思うのです。主の暖かさを感じること
が出来ないと、主はきっと自分を喜んでおられないのだ と思います。
(事実はそうでないのに)

やがて彼は 神がどこにおられるのかさえ 分からなくなります。もし彼が
この時点で落胆しないならば、彼は失ったものを一心に回復しようとします。
しかし、その祈りは聞かれません。彼が主を愛し、主を身近に感じていたい
と切望しても、今彼には最早 主の愛の感覚がありません。
果たして彼はこのことに耐えることが出来るのでしょうか。

★
今日これから、入院したケンのために下山します。
しかし21日にはまた 山に入ります。
この夏もまた、マルシア夫婦が 初めての赤ちゃんと一緒に
泊まりに来てくれるからです。

2009年8月16日日曜日

よき感覚を回復するための祈り

*感覚の生活(8)

このような祈りには効果がありません。
かつての素晴らしい感覚を取り戻すための祈りは 彼が失ったと
思っているものを回復できません。

それどころか、彼は日に日に冷たく、干からびてさえ行きます。
彼は何を行っても楽しくありません。ある場合には 自分の行動は
無味乾燥に思えます。

祈りでさえ仕方なしにやっているようなものです。以前の彼は 数時間でも
祈ることが出来ました。今は数分間祈るだけでも大変です。感覚の上では 
それは全く祈りと言えるものではありません。

聖書は読むのですが、潤される感覚がありません。以前は、聖書を読めば
読むほど、ますます楽しくなりました。今は、石だらけの不毛の地に
いるように思います。

彼は人に会っても 何が起こっても楽しくありません。
自分はキリスト者であるので、なすべきことは何とか行うのですが、
総てのことは無味乾燥で、何か無理があるのです。

☆
素晴らしい感覚に満ちた生活→ それを失った時のキリスト者の反応、
即ち、以前の感覚を回復しようとする試み。
それではその後 多くのキリスト者はどういう経過をたどる
のでしょうか。(当然これらは一般的な傾向に過ぎないのですが)

2009年8月15日土曜日

罪を犯したからだろうか?

感覚の生活(7)

そのような時、信者は「これは自分が罪を犯し、神に捨てられたからでは
ないだろうか」と考えます。しかし こうも思います、「もしも罪を犯した
のでないのなら、何故 主は共にいて下さらないのだろうか?」

彼は最近の自分の行いを調べ「やはり私は主に罪を犯したのかも知れない」
と思います。その結果、彼はあることを告白し、以前のように主が自分に
戻って来てくれること、またあの素晴らしい幸福感を回復して下さることを
願うのです。

ところが、自分を調べて見ても、何も特別な罪を見出すことが出来ません。
総ては大体 以前と同じです。「もし私の今の状況が主に捨てられるもの
であるなら、何故、過去の状態では捨てられなかったのか?」「罪を犯して
いないのなら、今なぜ 主は自分から離れてしまわれたのだろうか?」 
彼はいろいろと思いを巡らします。しかしながら どうしても 
彼が納得の出来る答えは見出すことが出来ません。

彼はそのような紆余曲折の中「やっぱり私は 主を何らかの方法で怒らせた
ので 捨てられたのだろう」という結論に傾きます。そしてサタンはこの時と
ばかりに 彼を責め立て「私が罪を犯したからだ」と信じ込ませようと
します。そのようにして、遂に彼は 主の前に赦しを求め「失ったもの」を
回復して下さるように願うのです。

しかし実のところ そのような祈りには全く効果はありません。

2009年8月14日金曜日

素晴らしい感覚は消え去る

感覚の生活(6)

しかしながら、このような経験は長く続くでしょうか?信者はいつまでも
そのように感じ、一生涯ずうっと楽しく感じることが出来るでしょうか?
結論として 多くの信者にとって、このような経験は決して長くは続き
ません。最も信者を悲しませるのは、一般的に言って一、二か月以内に
彼が高く評価するあの最高の幸せは突然 消え去ってしまうことです。

ある朝、いつものように目を覚まして聖書を読むのですが、何故か以前の
ような味わいがありません。次に彼は祈るでしょう。しかし数句口にした
だけで あと言葉が続きません。彼は 何かおかしいと感じます。

彼は昨日までは、他の信者は「霊的に停滞し、前進がない」と思って
いました。今は 自分もその一人であるように感じます。心も冷えて
しまったようです。内に燃える暖かさは消え去り、それがどこへ行った
のか分かりません。主の臨在を感じません。また主が近くにおられる
という感じもありません。まるで主が遠くにおられるかのようです。

今 彼が苦難を受ける時 幸いでなく、苦しみだけを感じます。彼が宣べ
伝える時、もはや楽しさがありません。数句 伝えるだけで、語る気力が
無いことに気づきます。要するに 総てが暗く、干からびて、冷たく、
死んだかのようです。あたかも自分が主によって墓に取り去られ、心に
慰めが少しもないようです。

今や 彼がいつまでも続くことを期待した
あの素晴らしい感覚は消え去ってしまったのです。

2009年8月13日木曜日

感覚の生活(5)

信者が以上のように感じるとき、その行為も変わります。以前 彼は他人と
話しをするのが好きでした。しかし今は 以上の感覚の故に 彼は静かに
していることが可能です。

そして、彼は他の人が雑談をしているのを見るとき、心ひそかに「それは
良くない」と思います。以前 彼は或いは 軽薄な人であったかも
しれません。しかし今 彼には重みがあるのです。

彼は他の信者が、ある面で敬虔さが足らないのを見て、それを深刻に感じて
罪定めをします。信者がこのような経験を通るとき、彼の行動は確かに
慎重になるでしょう。

更に 彼は鋭い判断の感覚を持ち、他の人の欠点を見ることが出来ます。
他の人が自分のような経験がないのを見て 心ひそかに「気の毒に」と思い
ます。彼は自分自身の幸いな経験を最高であると思い、他の兄弟姉妹が
まだそれを知らないのを哀れに思います。彼は他の信者が主に仕えるのを
見ても「彼らの生活は感動を知らず、きっと退屈なものであろう」と
断定します。

彼は自分のような「神の幸福に満ちた生活」のみが真に最高の生活である
と思います。自分だけが高い山頂にいるのであり、他の人は低い谷間に
いるように感じるのです。

2009年8月12日水曜日

感覚の生活(4)

彼は静まって一人になり、主と顔と顔を合わせることを愛します。出来る
ことなら、後ろの戸を閉じて常に主と交わっていたいのです。何故なら彼は
言い表すことが出来ないような幸いを経験するからです。

以前において 彼は人々の中での生活を楽しみました。そこに何か自分
の要求を満たすものを探していたのです。しかし今 彼は独りでいること
を好みます。彼が主の前で得る幸福は、人々から得られる幸福とは全く
比較にならないのです。

信者はこのように感じる時、なお一層、静まることを願います。何故なら
群集の中に出て行くなら、自分の幸福を失ってしまうかも知れないと
恐れるからです。

またそのような時、彼が主の為に働くことは非常に容易です。以前、彼は
他の人にあまり語る言葉がありませんでした。ところが今、心の内にある
燃える愛の火の故に、主について他の人に告げることは非常に楽しい
のです。語れば語るほど味わいがあります。

また、彼は喜んで主のために苦しもうと思います。何故なら主がとても
近くに感じられるからです。彼は主の為に自分が死ぬことを思ってさえ
喜びを覚えます。総ての重荷は軽くなり、総ての困難は容易になります。
これらは総て 彼の感覚の故です。(先人の言葉より)

☆
キリスト者に対する
全編にわたる先人の一つの心の負担は、
「更に 高嶺があるのです。そして、
それへと至る明確な道しるべも。」
なのではないでしょうか。

2009年8月11日火曜日

ワードが出てきた

★
昨日台風の中、妹夫婦が 
長野一泊経由で和歌山に帰って行きました。
連日の雨にも関わらず 
今年も とても暖かい空気に包まれた三日間でした。

彼らは 隣村の「いわなの郷」の川魚よりも
都路(みやこじ)の小さなレストラン・ホットハウスの
年季の入った味がたいそうお気に入りなのです。

義弟のヒロキさんが、
私のパソコンの「大掃除」をしてくれました。
それでPC の動きがビックリするほど軽くなり、その上 
何とPC の中に隠れひそんでいたワープロの「ワード」を
ひっぱり出してくれたのですよ。おかげで、
昨日からこのブログがとても書きやすくなりました。
ホンとに主とヒロキさんに感謝です。

そのヒロキさんも来春 待ちに待った停年です。

感覚の生活(3)

そのような感覚の生活をするキリスト者は、主を非常に近く感じ、あたかも
主に触れることが出来るかのようです。彼は主の愛をとても甘く感じます。
また彼は 自分は主を非常に愛している と感じます。心に火が燃えている
ようであり、あたかも天にいるかのように 言い尽くせない幸いを享受
します。感動があります。それは言葉に尽くせない楽しい感覚であり、彼は
まるで最も貴重な宝を得たかのように思います。

このような感覚は彼がどこへ行っても、何をしても彼と共にあります。
彼がそのような経験を通る時、彼は自分がどこにいるのかも分からない
かのようです。この世から遠く離れ、御使いと共にいるかのように
彼には感じられるのです。

そのような時、彼にとって聖書を読むのは非常に楽しいことです。読めば 
読むほど、幸いな感覚が増し加わります。祈りも容易になります。彼は主に
向かって思い切りその喜ばしい感覚を言い表します。そして祈れば祈るほど
天の光が益々明るく輝きます。また彼は主を愛するが故に 主に対して
多くの決心を表明するのです。(先人の言葉より)

2009年8月10日月曜日

感覚の生活(2)

☆
人の魂は大まかに言って、思い、感情、意志から成っています。更に
その三者の中の一つ キリスト者の感情の問題を大別するならば、それは 
おおよそ ①愛情、②欲望、③感覚に関わる三つの問題となります。

先回をもって、その三つのなかの「愛情」の問題は一旦終了しました。
さて、今 ②の「欲望」に関わる問題は 敢えてスキップし、今回から
キリスト者が極めて高く評価する③の「感覚の生活」に関する先人の主張
を見て行きたいと思います。


「罪からの解放→感覚の生活→霊的な生活」とありますが、ここで先人の
言う「罪からの解放」とは「御血による諸々の罪の赦しを知ること」の後に
経験するものです。その解放の喜びは 複数形の罪の赦しを得た喜びよりも
更に深い喜びであると言えるでしょう。この「罪からの解放or 自由」に
ついては 先人による「勝利する命」等の著作に詳しく述べられております。

感覚の生活

キリスト者が主との愛の関係を獲得し、主によって全く満足するとき、
多くの場合、彼は感覚の生活に入って行きます。そのような経験は彼に
とって 非常に貴重なものです。

普通そのような感覚の生活は罪からの解放を経験した後に起こり、そして
完全に霊的な生活(信仰の生活)を経験する前に来ます。即ち信者は 
罪からの解放→感覚の生活→霊的な生活という順序をたどるようです。

多くの信者は 霊的な認識に欠けるため、しばしばこの経験を過分に評価
し勝ちですが、それはおおむね 罪からの自由を得た後に来るものであり、
真の霊的な生活の前に存在する生活であると言うことです。

これは彼らに幸いな感覚を与えます。これはキリスト者にとっての最高の
経験、最も霊的で天的な経験のように感じられます。このような感覚の生活
は幸いで、非常に満足させるものであるので、彼らが一旦このような経験を
するならば、それを手放すのは非常に難しいことが分かります。
(先人の言葉より)

☆

2009年8月9日日曜日

一つのことに気をつける(4)

人の魂は大まかに言って、思い、感情、意志から成っています。
その三者の中の一つ キリスト者の感情の問題を大別するならば、それは 
①愛情、②欲望、③感覚に関わる三つ問題に分かれると言えるでしょう。
その中で今「愛情の問題」について一つの結論に近づきつつあります。
☆
愛情の問題において基本的に大切なことは、私達は自分発の愛情を
100パーセント神にささげなければならない、と言うことです。
私達が誰かを手放すことに困難を感じている時は、私達の「魂の命」
がまだ私全体を支配していることを知らなければなりません。

もし私達の愛が いかなる面においても「神の御こころ」に服すること
が出来ないなら 必ずそこに 非常に多くの「霊的でない事柄」即ち
「人の魂起源の事柄」が混入して来ているのです。

「魂からの愛」は いずれ私達を「この世と罪」に誘うことになります。
もし私達の愛情が「主から出ていない」のなら、遅かれ早かれ、
それは情欲に変わります。

このようなことで失敗した人は、昔から現在に至るまで あらゆる所に
存在し、何もサムソンに限ったことではありません。今日もデリラは、
至る所で人々の髪の毛を剃り続けているのです。

ところが、既に述べたことですが、信者が自分の愛の事柄を完全に
主にささげることは非常に難しいのです。

ですから 自分の手の中の愛情総てを主の足元に投げ出すことは、
真に霊的であることのしるしです。信者がどれぐらい あらゆる
「人の愛情」に対して死に、そして「愛を求めること」に死んでいるか、
それはどのぐらい霊的であるか を示すものです。魂の命に対する真の
死は「神を愛する愛以外の私の愛」を総て放棄することに見られます。

「霊の人」は何と超越していることでしょう。
彼は「人の愛」を超越して歩んでいるのです。
(先人の言葉より)

2009年8月8日土曜日

一つのことに気をつける(3)

働き人、主の為に働く者は、働きの上で、或いは働いているとき 
よくよく注意しなければなりません。それは、働きの中に
「異性の思い」が少しも入り込むべきではない、と言うことです。

例えば、異性の前で栄光を得ようと願うことは、総て堅く拒絶されなければ
なりません。総て異性の影響を受けたあなたの言葉や態度は、真の霊的な
力を無効にしてしまうのに十分です。万事、静かで純粋な動機で行われ
なければなりません。どうか覚えて下さい。罪が汚れているだけではなく、
魂からの総ても汚れているのです!

主イエスは地上におられたとき、マリヤやマルタ、その他の女性との
関わりがありました。重要な点は その愛情が全く神の管理下にあるか
どうか、或いは「魂の作用」がその中にあるかどうかです。

兄弟姉妹が互いに交わるのは正常です。けれども、主の為に働く人は、
働きの上で、或いは働いているとき、十分注意しなければなりません。
即ち、働きの中に異性の思いが少しも入り込まないようにするべきです。
いかなる魂の働き、或いは罪のものもあってはなりません。

信者が「徹底した十字架の御業」を経験する前に、「異性の友」を持つ
ことはあまり好ましいとは言えません。しかし、信者がどのような霊的
成長の段階に達していようとも、もしも彼が心の中で異性の友を慕う
とするならば 私達は確かに魂の支配を受けているのです。
私達は万事につけ、私達に対する神の全能の按配の手の下に服する
ことを学ばなければなりません。

2009年8月7日金曜日

一つのことに気をつける(2)

キリスト者が本当に霊に従って歩もうとするのであれば 彼は事のほか、
愛情に気を配る必要があります。

私達の友人は何よりも 私達の愛情を動かします。その中でも、異性は
最も私達の感情を刺激するものです。男女は身体的にも心理的にも 
お互いに対して適合されるように造られています。従って男女には
生まれながら、多くの相違があります。それ故に それらの相違点が
互いに強く引き付け合う要素となります。
言うまでもなく これらの愛情は明らかに天然的であり魂的です。

人は異性に対する時 愛情が容易に生じやすいのは事実です。同性から
受ける刺激と異性から受ける刺激とでは 比較になりません。相互に
心理的要求があるので、異性に対しては同性よりも 先ずは 親しく
なりやすいと言えます。このような傾向は、普遍的、天然的で、自然な
ものです。ですから異性に対する愛情は 次にホンの小さな刺激で 
容易に燃え上がることになるのです。

以上のことは総て皆 極めて天然的 魂的な面の現象です。従って
信者が「真に霊に従って歩きたい」のであれば、彼はそれらのことに
相当の注意を払わざるを得ないはずです。

例えば、他の人を取り扱う際に、愛を示すべき場面において もし
私達がある方法で同性に接し、別の方法によって異性に接するとする
ならば、その時私達は 明らかに魂の命の支配下にあるのです。即ち
もし、私が異性であると言うことで、同性と全く同じ接し方が出来ない
のなら、それは完全に魂の命から来ています。要するに もし相手が
異性であるが故に、私がその人に何か不思議な引き付ける力を感じる
ならば、私の中で 生来の魂の命が私全体を支配する力として
強く働いていることを認めざるを得ないのです。

しかし、そのような愛情は「正当で立派な目的の中に」混入されている
場合が多いものです。そのような正当な思いのほかに「異性であるが
故の思い」が僅かでもそこに混合されているとするならば、私は霊の
支配下にいるとは言えません。私は決して霊的ではないのです。
(先人の言葉より)

2009年8月6日木曜日

一つのことに気をつける(1)

もしも私達が霊に従って歩くことを願うのであれば、自分の
愛情を「静寂に保つ」必要があります。そうでないと、私達は
人の霊の直覚を通して語られる聖霊の御声を 直接聞くことは
不可能となります。

もし私の愛情が 全く神のみこころに服していないのなら 私の
霊と心は感情によって妨げられます。神に服していない愛情は
霊の導きを阻むのです。従って信者は絶えず、自分の「愛情を
刺激する人やもの」に対して 霊の中で用心深くなければ
なりません。

もし他の事柄で勝つことが出来ないなら、サタンは確かにこの面で
あなたを誘惑するでしょう。このことで これまで どれほど
多くの信者が失敗して来たか分かりません。私達は本当に注意深く
あるべきです。

私達の友人は何よりも私達の愛情を刺激します。友人達の中でも 
異性は最も私達の心を動かすものです。男女は生まれながら
多くの相違があるので、それぞれ互いに引き付けあう力を
持っています。

そこに働くその力は 明らかに魂的、天然的なものです。従って
真に霊に従って歩もうとするのであれば 信者は事のほか 
この点に気をつけていなければならないのです。
(先人の言葉より)

2009年8月5日水曜日

「感じる」から「信じる」へ(2)

キリスト者の霊的初期の段階において、主の愛を「感じる」ことは
やはり必要であり、また助けにもなります。その段階においては 
確かにこれは信者が追い求めるべきものでもあります。

しかし、主の愛を感じるという経験の後、ある適切な時間を経過した
後には信者はもはや そのような「感覚にしがみつく」べきでは
ありません。そうでないと彼の「霊の命」は損失をこうむるでしょう。

キリスト者の経験には、その経験の各駅があります。それぞれの駅に
おいて 適正な経験をすることは キリスト者にとって
欠くべからざることです。

しかし、信者が「以前の駅での経験」を最後の駅まで引きずって行こう
とするのならば それは明らかに間違いです。それは 彼に霊的成長
における「停滞」をもたらします。彼の霊的命の成長は
それ以後は期待できないでしょう。

信者が明確に主の愛を感じた後は、もはやそこに いつまでも留まる
べきではありません。たとえどんな境遇に置かれたとしても、
(たとえ、無感動の暗黒の感覚の中に長い間おらせられたとしても
或いは 主に見放されたと「感じた」としても!)
主は キリスト者が「安定して 主の愛を信じ続ける」という更に
高い段階へと進んで欲しいのです。

その理由の故に、キリスト者の初期の行程において、信者に神の愛を
感じさせたあと、直ちに ではなくとも、神は敢えて 彼に、神の愛を
感じさせないようにされます。この事実は 
私達の多くが経験して来たことではないでしょうか。

それは何故でしょう。
それは たとえどんなことがあろうとも 神は「ご自身の愛は絶対に
不変である」ことを しっかりキリスト者に信じさせたい
からに他なりません。

ですから、もしも主の愛を感じる経験の後、信者が突如として 
それまで楽しんで来た愛の感覚を失った時には、その時こそ神は 
「どんな場合にでも ただ神を信じる」という更に高い段階へと 
自分を導こうとしていることに、気づくべきです。それ故に、
喜びの感覚が失われてしまったからといって、
驚ろくにはおよびません。
(先人の言葉より)

☆     
↑
この白い☆印で
先人の言葉と、私の挿入or コメントを区別しております。
何も無ければ、全部先人の言葉です。
★は全く別の目的の私の文です。

2009年8月4日火曜日

「感じる」から「信じる」へ(1)

主はしばしばキリスト者に 非常に苦痛と思えることを体験させます。
それは信者が「自分自身のために」神を愛さないようになるためです。

信者が自分自身のために、自分の愛をもって 主を愛するとき 彼は主を
愛するために、主の愛を感じなければなりません。しかし信者が神の愛
をもって、神のために神を愛するとき、神は彼に神の愛を感じさせません。
かえって、神は信者が神の愛を信じることを願われます。

神は キリスト者の生活の初めにおいて、いつも多くの方法で信者を
引き付けて、神の愛を感じさせます。しかし、信者がこのことを経験
した後、神は彼を一層深い段階へと導かれます。

その際、神は彼にご自身の愛を感じさせません。かえって、神は信者が
神の愛を 信じることを願われます。キリスト者の生活の初期においては
主はいつも多くの方法で信者を引き付けて、神の愛を感じさせます。

信者がこのことを経験した後、神は彼を一層深い段階へと導かれます。
神は彼にご自身の愛を感じさせるのではなく、神はご自身の愛を信じさせる
という行程へと導かれるのです。私達は主の愛を「更により深く知る」
ことに注意を払う必要があります。これは更に前進することを願う
総ての信者が経験しなければならないとても大切な一歩です。

2009年8月3日月曜日

霊的な愛

神の愛の性質は永久不変です。
それに反し、私達の愛は非常に変わりやすいものです。
ですから、もしも私達が 自分自身の愛で神を愛するとしたら、
神に対する私達の愛は 自分が「楽しくない」と感じるならば 
冷ややかになります。試練が長引くと耐えられません。

それは 自分の愛で神を愛するからです。自分自身のために、
自分自身の幸いなどのために神を愛するからです。
ですから、期待していた「幸い」を獲得できないとなれば、
私達は後退します。

しかし、私達が神の愛で神を愛するならば、自分の状況、地位、
立場がどう変化したとしても変わることなく神を愛するはずです。

「愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷です。・・
愛は大水も消すことが出来ず、洪水もおぼれさせることができない。」
(雅歌8の6、7)

もしも信者が真に神を愛するなら、自分の境遇がどうであれ、
また自分の感覚がどうであれ、彼はなお神を愛します。
魂からの神への愛は 感情が働きを停止すると停止します。
霊からの愛は、強く、残酷で神を離すことはありません。


★ 
急きょ和歌山にいる私の妹夫婦がこの週末 山に来ることに
なりました。長引いていた妹の病気もとてもよくなり
楽しみにしているようです。そのような彼らと今回小屋で
ゆったりと過ごすことは、とても大切なことであると感じます。
大阪の末の妹も近い将来、必ず来てくれることでしょう。

2009年8月2日日曜日

愛から生ずる実(み)2

☆    ☆

「総ての物事の対立」の究極的な姿を最も簡単に表現するならば、それは
「霊と物質の対立」と言うことになる、と私は常日頃考えております。
それは必ずどちらかが 他方を支配する結果となるでしょう。

さて人の魂は物質に属します。
創世記冒頭の「生き物」(人のことではありません)と訳された時の
「物」は原語では何と「魂」だと言います。即ちそれは 人の魂は物に
属すると言うことです。その為に 私達の魂が「物」から切り離される
ことは極めて困難なことです。それが、私達が物、時空、旧創造、
この世界を深く愛し、またそれに執着する理由です。

聖書にあるように、本来キリスト者の国籍は天にあり、私達は決してこの
世界の者ではありません。しかしながら私達は、まだ多分当分?この世に
留まらざるを得ないでしょう。それ故に
私の霊が「魂とこの世界」を支配するか、それとも「物と連なった
私の魂」が霊を無視し 霊を抑圧し続けるか、と言う事は 
私のこれからの歩みにとって大きな分かれ道とさえ
なってしまうでしょう。

神のことば(啓示)が私の霊と魂を切り離す力を発揮し、そして
十字架が 魂の命のエネルギーを実際的に弱くする力を
私達が神から日々いただかなければならない切実な理由がそこにも
あります。神のことばと十字架、それが魂の命を対処する神の方法です。

しかし今それに加え「この世と常に接触しなければならない私達」を
この世から切り離し、この世にありながら この世に属させない霊的な
力が「神を真に愛する所からも来る」と言う「知識」はこの度、私に
とって大きな驚きでありまた「福音」とさえなりました。

結論としてことばと十字架、そして更に愛が 私達をして
この世から分離させ、神の中へと至らしめる有力な力となるはずです。
私もこれから それらの力を本当に体験して行きたいものである
と願っております。

愛から生ずる実(み)

注目しなければならないのは二種類の愛です。
それは 私達の魂からの愛と私達の霊からの愛です。
魂の愛:私は真の意味では霊を知らず、その結果 霊を圧迫抑圧し、
私の魂が 私という存在の中心に位置して私を行動させ、その結果
私の魂は「自由に」私が愛したい人を「私の為に」愛します。
それは通常見る生まれながらの人の愛の姿です。

霊からの愛とは、聖霊が私の主となった結果 私から自然に表現
される愛です。それは聖霊の支配のもとにある私の霊が、魂の束縛から
解放され、更に霊が魂を支配するので 私の霊は私の感情を経由して
「神の為に」そして「神の中で」神と人を愛する、と先人は言います。
彼の言葉は続きます。

☆    ☆

この二つの愛の実、即ちこの二つの愛の結果を見るならば、二つの愛の
源を告げることが出来ます。もしもその愛が魂に属するなら、
そのような愛はキリスト者を永続的に世から離れさせる為に、信者を
助ける力はありません。彼は「この世の引き付けるもの」から離れる為に、
苦労し苦闘しなければなりません。

しかし、一方 愛が霊に属するものであれば、世の事柄は自然に
捨て去られます。この愛の故にです。信者はそれをいやしめ、
それらを憎むべきものと見なします。
彼はもはや「世を見る目」を持ちません。何故なら、神の栄光が
彼の肉の目を見えなくしたからです。

このような神を愛する経験の後、彼は自分を高く評価することは
ありません。むしろ、彼は自らを卑しめ、人の前に小さな者となった
かのように感じます。これが 霊的な神の愛を真に経験した信者が
経験するもう一つの実です。

2009年8月1日土曜日

幾種類かの愛がある

霊的な愛と魂的な愛との相違は何でしょうか。外観からその
相違を表現するのは非常に困難です。しかしキリスト者は自分の
愛の源がどこにあるのかを識別しなければなりません。

魂は私達の自己です。ですから、魂に属する総てのものは、
自己から分離されることはありません。従って主に対するもの
であったとしても魂からの愛は、自己から出た愛です。自己の
幸いな感情を得るために神を愛することも魂的に神を愛することです。

一方 もしも神を愛する愛が霊的であるならば、その中に自己が混入
することはありません。それは純粋に「神のために」また「神を愛する
ために」神を愛することです。そうではなく、全部であれ一部であれ、
自己の幸いのために、或いは別の理由のために神を愛することは
総て魂から出たものです。

☆    ☆

男女における愛情関係において「恋を恋する」と言う言葉が
あります。この意味は、その人たちは「本当に」相手を愛して
いるのではなく、実は彼らが愛し合っていると思っている彼らの
関係において発生する恋愛感覚や雰囲気、ムードに酔いしれている
と言う意味でしょう。だから、ある一定期間が過ぎ、雰囲気が
過ぎ去るとたちまち彼らの関係は消滅する、と説明されています。

しかし、別の人は言うでしょう「いやそこにさえ、彼らには
恋愛感覚を愛する以外に、相手に対するある種の愛がありますよ」と。
そうです。そこにもやはり「人の何かしらの愛」は存在するのでしょう。
それではその「彼らの愛」の源はどこにあるでしょうか。それは
明らかに人の魂であり、更に「魂よりももっと外側の要素」です。
ですからここに既に三種類の「愛のかたち」があることが分かります。
それは感覚や雰囲気を愛する愛、相手の魂を自分の魂によって愛する愛、
そして魂よりも更に外側の要素、即ち肉体からの「愛」です。

私は今それらの愛の「良し悪し」を言いたいのではありません。
何故なら、極めて重要なポイントは「善悪」の問題ではなく、
そこに「永遠の要素」が存在しているかどうかであるからです。

神は永遠の神であり、神が御子の命をさえ代償として、即ち
神が「命がけで」私達に与えようとされたのはその永遠の命、
即ち神御自身の命であったからです。その絶大な価値を
表現する人の言葉はありません。

いずれにしろ神が評価されるのは 唯「永遠と言う要素を持つもの」
だけです。そして神は「その永遠の要素」はただ御子の内にある、
と断言されます。(Ⅰヨハネ5の11)従って私達がその
「永遠の命と言う源」から神と人を愛するならば、
その時神は初めて「私達の愛」を評価されるのです。


★   ★

あの「柄沢登兄弟」の妻、良子さんのお姉さんである
渡辺姉妹が今ご病気です。
(それは軽い病であるとは言えないようです)
以下は ある姉妹へ寄せられた渡辺姉妹の娘さんからのメールです:

「いつも母がお世話になっています。無事に手術が終わりました。
本人は感謝と喜びに溢れているようです。
お祈りして頂きありがとうございました。ご安心ください。」

2009年7月31日金曜日

魂からの愛(3)

愛とは何でしょう。確かにそれは一面、誰でもが(動物さえも!)
容易に感じることが出来るものです。しかし他面そこには極めて
奥深いものがあります。(確かに愛にはいくつかのレベル、或いは
「本質的な相違」があるようです。)

先人の「魂からの愛」に関するシビアと見える言葉は続きます。彼は
今それらの愛の中でも 最高度の愛「神の愛」への言及に際して、
私達が容易に陥りがちな一つの誤解に敢えて触れつつある
と思われます。もう少しお付き合い下さい。
次回から次なる論旨へと入る筈です。

☆     ☆

主イエスの苦難は今日の信者の心の中で いかに無力になっている
ことでしょう!彼らが主の苦難について語る時、実の所「自分達こそ
主を愛しているのであり、他の人たちとは比べる事が出来ない」
と誇っているのです!これらのことについて語る最中
彼らはあたかも天の民のように見えるのですが・・。

しかし、彼らは実際には「哀れな自己」から少しも離れていないのです。
彼らの言葉を聞くなら あなたは彼らが非常に主を愛している
と思うでしょう。それどころか彼らを褒め賞賛するかも知れません。
ところが、実際は彼らは完全に自分自身を愛しているのです。

彼らは主を記念し、主を語り「主を慕い」ますが、その理由は、実は
それが彼らを幸せに感じさせるからです。彼らがそのように行うのは、
彼らの目的が「彼らの天的な幸せ感覚」を得たいからに過ぎません。
もしもそうであるならば、それは主のためではありません。
そのように主を記念するのは、彼らの「いわゆる霊性」を心地よく
感じさせるからです。

しかし、それらは魂に属し、地に属します。それらは「神から」
ではありません。従って決して霊に属するものではないのです。

★       ★

ケンが入院しました。
しばらくぶりで、今日山に入ります。小屋は無事でしょうか。

2009年7月30日木曜日

魂からの愛(2)

☆      ☆
ここで彼が強烈に訴えていることを 容易に受け入れるキリスト者は
むしろ少ないでしょう。多くの人はむしろ ある種の抵抗を感じざるを
得ないのではないでしょうか。

しかしながら確かに私達は 例えば「聖書にそって」作られた「イエスの
物語」に人が感動すれば、その感動と感覚は必ず「神からである」などとは
決して言えないことを知っています。神により頼むことなど全く無く、
単にこの世の興行目的の為に、極めて美しく作られたキリストストーリーが
「人々の魂」を揺り動かすことは十分あり得ることです。何故ならそれは
人々の魂の感動を獲得すると言う唯一のターゲットの下に、これまた
あらゆる人の魂の力を総動員して作られたものであるからです。

その点にこそ その「キリストストーリー」の根源があるのです。今日の
世相の中で、人々の求めるものはひたすら「魂の感動」です。それ故に当然
人々は真にキリストを愛したからではなく、唯「自分の魂の感動」を得た
ので涙さえ流すのです。その感動の根源は正に人の魂です。従ってその
ような感動の中に、人の命に永遠的な影響を与え得る天の要素が
皆無であることは全く論を待たないのです。

従って事の要点、総ての重要なポイントは それらのものの「根、源」に
あります。「神ご自身と復活のキリスト」と言う唯一の源から発しない、
いかなるものも 神が評価なさることは決してありません。
それが「この神」の極めてユニークで決して譲ることのない特徴です。

そして「キリストの復活以外の一切のもの」に対する神の絶対的な評価が
「あの死罪」だったのです。従ってそれら総ては イエスキリストの中で
死ななければなりません。イエスの十字架とは旧創造の「総ての物、者、
事」に対する神の絶対的な否定であり、復活とは 神の唯一の絶対的な
肯定です。即ち 死を完全に撃破したものだけを神は肯定されたのです。
それが復活のキリストです。従って「私達の神への愛」を含め、あらゆる
ものが 唯復活のキリストからのみ発せられなければならないのです。

今その復活の主なるキリスト御自身が 私達の霊の中におられるとは
何たる事実でしょう!従って私達の「神の器としての魂の感情」はその
霊への完全な服従のもとで、真の神の愛を流し出す可能性があるのです。

魂からの愛(1)

私達は決して「自分で神を愛することが出来る」などと思うべきでは
ありません。生来の私達には本来 神を愛する「真の愛」の
持ち合わせはありません。主は「人の自己」から出て来たものであれば
それがいかなるものであっても否定されます。神は 私起源であると言う
理由の故に「私の美しく見える主に対する愛」でさえ
受け入れることが出来ないのです。

しかしもし私達が 主に対して愛を全く持たない、と言うのであれば 
神は当然 悲しまれます。しかしながらこの他に、私達の主をことのほか
悲しませる理由があり得るのです。
それは私達が主を「人の魂で」愛することです。

もし信者が魂の力で主を愛するなら、それは主を喜ばせることはあり得
ません。信者の愛は、主を愛すると言う目的のためでさえも
「完全に霊の支配の下に」いなければならないのです。

今日 あまりにも多くのキリスト者が「この世的な愛」によって、即ち
「魂からの愛」によって主を愛しています。真に「神の愛によって」
主を愛するのを見ることはとてもまれです。
これは実際にはどのような意味でしょうか。

今日、多くの人々は「人の心で」神の事柄を受け入れています。彼らは
父なる神の愛について語ります。彼らは主を「愛する主よ」と呼びます。
そして主の苦難を記念します。このようにする時、彼らの心は喜びに
満たされ主の愛に「感動」します。

彼らは、この感覚は「主からである」と確信します。ある者は 主の
十字架を思うとき、涙を抑えることが出来ません。それを見ると私達は 
彼らには主イエスに対する言い尽くせない燃える愛があると思うでしょう。

しかし、非常に確かなことは
そのような感覚は「彼らの命」をすぐに「ケロリとして」素通りしてしまう
ことです。その跡に何も残るものはありません。そこには「永遠的天的な
要素」を彼らに与えるものは全くありません。それはまるで
「跡を残さないで」海を行く船のようです。一体、これはどのような
愛なのでしょうか。その愛の根源はどこにあるのでしょうか。

このような愛の源は決して「永遠からのもの」ではありません。それは
「人の自己を幸いにする愛」であることには間違いありません。しかし
それは決して「真に神を愛する愛」ではあり得ません。
それではそのような時、彼らが愛している本当の対象は何なのでしょうか。
それは、彼らが自己の魂で感じる「幸いな感覚」です。彼らは 主の苦難を
外側から見て感動するのですが、そこには非常に大切な事実が欠けている
のです。それは、そのような愛においては、内側にある真理は「彼の命」に
霊的ないかなる影響も与えることが出来ない、と言うことです。

2009年7月29日水曜日

「神にあって」、「神のために」

ところが、
キリスト者が神の剥奪により「自分の愛するもの達」を失ったように見えた
としても、もしもそこに、キリストの死が真に介入していなかった
のであれば、それらはこの世にある「艱難辛苦の物語」と何らの相違も
ありません。従ってそこに神の霊的効力を期待することは出来ないのです。

また、自分の自由意志によって、自ら「自分に親しいもの」を捨て去った
としても、もしそこに、彼の信仰の機能が働き、キリストの死の効力が
「彼の十字架」に伝達されていなかったのであれば、
そこに霊的力を期待することは全く不可能です。

しかし、彼がそれらの一つ一つの経験において、真に「自分の十字架」を
負い、深い死の水の中を通る経験をしたのであれば・・

☆      ☆

彼はいずれある日 自分の心が、他の人を愛することにおいて、
どれ程 純粋であるかに気づくことになります。
その時には既に、彼の愛の中に「自分からのもの」は混入されていません。
彼の心の総ては神のためであり、彼の一切は神の中にあります。

過去において、確かに彼は他の人を愛しましたが、自分自身を他の人よりも
多く愛し、自分自身を他の人よりも重要なものと見なしました。しかし今、
彼は他の人と喜びや悲しみを分かち合い、愛をもって、他の人の重荷を担い
仕えることが出来ます。今彼は 自分が愛したい者を「自由に」愛する
というのではなく、「神が彼に愛して欲しい人」を「神の中で」愛するのです。

彼は他の人を自分自身よりも多く愛すると言うのではありません。
彼は他の人を自分自身のように愛するのです。
彼は自分自身を「神にあって」、「神のために」愛するので、
他の人をも「神にあって」、「神のために」愛するのです。
ですから、彼は他の人を自分自身のように愛することが出来るのです。

*
人の愛情とは何と取り扱いにくいものでしょう。もしも敢えて私達が
愛情において「神の御こころのもとに服する」のでなければ、いつでも
私達の愛情は「霊の命を損なってしまう」危険性があります。
間違った思想を正すことは比較的容易です。
しかし、間違った愛情を正すのは容易なことではありません。

キリスト者が神に「自分の愛情を管理していただく」ことは、
私達の霊の成長に不可欠なものであることを知らなければなりません。
私達は心を尽くして主を愛し、また主に私達の愛を
「支配していただく」必要があるのです。

☆     ☆

これまではおおよそ、キリスト者が他人をどう愛するか、
と言う問題を取り扱ったものでした。次回からは
キリスト者が神をどう愛するか、と言うテーマに入って行きます。
私達は自分は神を愛していると思っています。彼によれば、しかしながら
そこには極めて容易ならざる問題が含まれているようです。

2009年7月28日火曜日

神の剥奪

愛なる神は、
キリスト者の愛してやまない者、物、事を奪い取られる、
というのは本当です。
何故でしょうか。それは
信者の「永遠の益や福祉」のためであり、それは
信者がかつて「神に自分の総てを献げた」と言う献身を根拠として
行なわれるのです。神は「私の一切をあなたに委ねます」と言う
私の一つの祈りを忘れることはありません。

例えば、神は
「私が愛する者」の心そのものに変化を与えてしまうか、
またある環境を起こし、私にその対象を もはや愛させないように
してしまわれます。
また、私の愛する者が遠い旅に出てしまうか、
或いは この世を去るという環境を許されるかも知れません。

いずれにしろ 神に対するあなたの献身が本物であるならば、
神はそれに応じて「あなたの総てのもの」を剥奪しにかかられるのです。
そして遂に残るは「ただ神ご自身だけ」にしてしまわれます。あなたに
敢えて神が許される状況の中には あなたに近づく死という可能性さえ
あるかも知れません。いずれにしろ、神は時間の中でそれを必ず実行
されます。それはただひたすら「永遠という範囲を人生のスパンとする
あなた」の真の益のためです。

従ってあなたは 何もそのような可能性を漠然と待つ必要はありません。
あなたが「天国の故に、霊的な生活を奪い取りたい」のであるならば、
一刻も早く「あなたに親しいもの」総てを自ら進んで捨て去る方が
はるかによいのです。
あなたは今の時(肉体と時間に留まっている時)を生かして用いる
必要があるのです。なぜなら今は悪い時代であるからです。

それは「神の御こころと願望」を、更新された人の自由意志を用いて 
自ら選び取る という人間最高の行為に繋がるのです。そのように、
確かにキリスト者の真の賢さは 総てを捨て去るまでの時間の長短に
現れる、とも言えるでしょう。(エペソ5の14~18)

いずれにしろ神は必ず ご自身を愛する者の心に、ご自身以外の一切を
放棄するようにと、忍耐強く働き続けられます。私達の中の霊の命でさえも
私達の愛の対象が「神と何か」へと分割され、また「さ迷う」ことを許され
ません。私達の視界の焦点は あたかも「あの鳩の目」(雅歌4の1)
のように、単一にキリストの上にのみ焦点づけられるべきです。

所が多くの場合 私の生来の愛は 動機において間違い、過剰において
間違い、目標において間違うものですが、何とそれらは神にとっては 
汚れとさえ映っているのです。事実神の目から見るとき 私の自己から
出てくる「私起源の愛情」は総て 私の憎しみと同じように
汚れていると言わなければならないのです。

☆     ☆

「あなたの宝のある所に、あなたの心もあります。・・
もしもあなたの目が単一(ダービー訳)ならば、
あなたの全身が明るいのです。」(マタイ6の21、22)

2009年7月27日月曜日

神の意図

以上のように見ると、キリスト者が他の人を愛する必要はない
のでしょうか。もちろん、そんなことはありません。兄弟達を愛し、
敵をさえ愛するように、との聖書の繰り返された命令を見るだけでも、
キリスト者が他の人を愛さないのは 神の意図でないことは明白です。
それでは神の意図はどこにあるのでしょうか。それは:

あなたが他の人を愛する時、神はあなたに対して、
「あなたのために」「あなた自身によって」ではなく、
「神ご自身のために」また「主ご自身の中」だけで
愛して欲しいのです。

もしもそのようにして私達が人を愛することが出来るならば、
その時には、もはや「私起源の愛情」に その地位は無いでしょう。
私の生まれながらの情愛はその力を完全に失っているでしょう。

即ち神は 人々に対する私達の愛において「主ご自身の愛の力」の
完全な支配を受けて欲しいのです。それが成就されるならば、
神が私達に ある人を愛して欲しい時 私達はそれに従うことが
出来ます。また神が私達に ある人との関係を終わらせて欲しい
場合には、私達は直ちに それにも従うことが出来るのです。

このようなキリスト者の姿は その信者における十字架の現れです。
私達の内に、聖霊によって、キリストの永遠の死が深く適用され、
私の魂の命を「キリストの死に渡す」ことを真に経験する時にのみ、
信者は「自分の愛情、天然の情愛」において、
「自己を失う」ことが可能となるのです。

私の魂が死を経過する時、もはや私の愛情が誰かに粘りつくことは
ありません。その時、私は ただ「神の命令」によって導かれます。
私の魂の命が 深い死の段階を経過して初めて、
私達は 生来の「私発の」愛情において あたかも
死んだように力を失うのです。

その後において、私達が他の人々をどのように「新しく愛するか」
について神は 私達を直接導くことが可能となります。そして神は
私達に、過去私達が愛した人たちとの「全く新しい関係」を
「御自身の中で」開始させるのです。

天然の愛情関係はことごとく終結しなければなりません。
私達の愛情は総て十字架の死の中を通り、今や
復活の領域の側(がわ)で 他の人々との新しい関係へと
入って行くべきです。

そのような生活は、私達にとって何と難しく見えることでしょう。
しかし、このように生きた人だけが、
これが何たる祝福であるかを
真に経験しているのではないでしょうか。

2009年7月26日日曜日

ただ神をのみ愛す

私達は本当に知らなければなりませんが、
私達はただ一人の人を愛し、ただ一人の主人に
仕えることが出来るだけです。
この意味は何でしょうか。

それは、
もしも私達が人を愛するのであれば、同時に
神を愛することは出来ない、と言うことです。
それ故、私達は
いかなる人との「秘密の関係」も絶つべきです。

ただ神のみが キリスト者の心を 
満足させることが出来るのです。
いかなる人間も、私達の心に
真の満足を与えることは不可能です。

非常に多くの信者が失敗するのは、
「ただ神の中でのみ得られるもの」を、
「人の中に」捜し求めるからに他なりません。

「人が与える愛」はむなしさ以外の
何ものでもありません。
神の愛のみが 信者の願いと満足とを
初めて完全に満たすことが出来るのです。

神の目から見るならば
もし人が神以外のものに愛を求めるのであれば、
彼の霊的状態は直ちに堕落してしまうのです。

人はただ神の愛によって
生きることが出来るのみです。

☆
私のほかに、他の神々があってはならない。
(出エジプト20の3)

2009年7月25日土曜日

「神に対する愛」の純度(2)

*二種類の「~のために」「~を通して」*
さて結論的に言うならば確かに、キリスト者が「ある者(物)のために」
「あるものを通して」神を愛するのであるならば 神を純粋に真実に
愛することなど到底不可能である、と言うことが出来ます。私達は
ただ単純に「神ご自身のために」「神ご自身を通して」「神そのものを」
愛することが出来るだけです。
これは神たる方の願いであり、また当然の要求なのです。

愛に関して、神が私達に求めておられる最重要点はその純度です。
神に対する価値ある愛は 先ず第一にその純度にあります。それは
100パーセントの純度であるべきですが、実はそれは初心者にも
十分可能であるはずです。(それを現実性のない「高度なキリスト教」
であるなどとするのは間違いです。後日この説明も必要となるでしょう)

方や 神に対する愛の「強さや深さ」は、その信者の信仰の程度に応じて
成長して行くのですから、それには「ある一定期間」を要するのは
やむを得ないことでしょう。神はそのことは十分にご存知です。

しかしあなたが、万事につけ、注意深く「神への愛の純度」を高く保つ
ことに忠実であるならば、その結果としてあなたの信仰と命の成長は、
とても健全なものになることは明らかです。それは命における霊的天的な
自然現象であるからです。実はそこにだけ、即ち「主に対する純粋な愛が
存在する所」にだけ、命の自然で健康な成長が期待できるのです。

*
・「神に対する愛」の純度を獲得するために、
実際的な十字架を自分の魂に適用すること、
(色々な愛を掴んでしまうのは魂ですから)
・次に生活の種々の場面で注意深く(目を覚まして)
その純度を維持すること、
それだけが私達の日々の責務です。

☆
青いリンゴの実はとても小さく固いのです。
まだ食べるには早すぎるでしょう。
それでも
リンゴであるその純度は間違いなく100%です。
だから、それは必ず
「あの天の忠実なる農夫の手入れ」によって
美しくおいしい果実へと成長するでしょう。
それは、神と人との大きな喜びとなるためです。

「神に対する愛」の純度(1)

*二種類の「~のために」「~を通して」*
神の子供達の多くは、自分の愛する者が自分の霊的な成長に 
どんなふうに妨げになるかを認識しておりません。あるケースを
考えて見ましょう。キリスト者が他のキリスト者を愛するのは当然
ですし必要なことです。しかし、キリスト者への愛でさえ決して
「ある愛し方」に陥ってはなりません。その様な場合でも彼は 
神以外に「別の愛」の対象を持つことになるのです。
要するにそれも「愛の分割」に過ぎません。

ある日 信者が神以外にそのような愛を所有し始める時、彼は彼の中で
「自分にとっての神の重要性」が減少してしまったことを感じざるを
得ないでしょう。そのような場合、彼は神を愛していないのでしょうか。
いいえ、彼はある意味では やはり神を愛していると言えるのです。
しかし、彼が神を愛するその愛の内容は もはや「神ご自身を通して」
「神のために」神を愛するのではなく、キリスト者である
「その愛する者を通して」「その人のために」何とか神を愛する、に
変質してしまっているのです。

さてこの神に対する愛は真実と言えるのでしょうか。彼のために
命までも捨てられた神は本当にそのような彼の愛し方によって
満足出来るでしょうか。答えは当然、強い否です。

信者が「自分の愛する者を通して」「その人のために」神を愛する時に、
神と「その相手」をちょうど半分の量で愛することさえ不可能です。
どうしても彼の心は神よりも、その対象に、より多く注がれることは
避けられません。何故なら そもそも彼は 単に神を「その人を通して」
「その人のために」愛しているに過ぎないからです。

その間、その信者の命が成長することは決してあり得ません。彼の命は
必ず後退します。しかし一見彼の外観には何らの変化もないように見える
でしょう。従ってそれだけ、これはそのキリスト者にとって深刻な事態
であると言えるのです。

それでも なおかつ彼がもしも「あの人は信仰の上で私によい影響を与えて
くれるので・・」と彼の理由を申し立て、その「愛」を「潔く捨てる」
ことなく時間が経過して行くならば、不思議なことに、その相手は彼に
対して別の影響を与え、今度は最悪「神に対する彼の愛を失わせる」可能性
さえ生ずるかも知れないのです。何故なら彼は 神を「その人のために、
その人を通して」愛して来ただけなので、その人の影響でたやすく彼の総て
が揺れ動いてしまうからです。そこにはどうしても肉の介入は
避けられません。彼はそれまで とても危うい信仰の土台に立って来た
ことは言うまでもありませんが、実はそれ以上に危惧される点は、それらは
極めて大きな不純を抱えた「神への愛」であるという事なのです。

もう一点残念ながら、以上述べたような状況はしばしば
今日多くのキリスト者の群れとそのリーダーとの間にも十分起こり得る
一つの傾向であることを申し添えて置かなければならないでしょう。

2009年7月24日金曜日

不思議な喜びに満たされています

*あるメールから*
私達はこのブログに今書かれていることの実際を歩み始めていると
思います。主だけを愛すること、主だけに向くこと…主に向けば主が
見えてくる。主はあまりに素晴らしいから。そして、主以外のものへの
愛は十字架を通って復活の領域で「主からの愛として」戻ってくることが
わかるから何も心配ないです。

「人への心」を置いて主に向く…これは日に何度も、その都度行って
います。人から主へ心の向きを変え、主の約束を思い、主の方法を
思い出す。その時々の心をそのまま主に注ぎ出し、願いを訴え、主が成して
下さることを信じて感謝し、委ね、任せる。その結果、不安、思い煩い、
恐れから、安息と幸いと豊かさ(これらは主そのものと思います)に
移されます。この一瞬の心の操作に十字架がありますね。

十字架の機会が多ければ多いほど、主が生きられる機会が多い。主の
邪魔をしているものを取り除きさえすれば、自動的に当たり前に主は生き
始めてくださいますね。そして、突然、信仰に満たされたのです。

約束の地、復活の領域に足を踏み入れた感じ。
今までとは全く違う領域が開かれてきています。「抜けた!」という
はっきりした違いです。あまりの素晴らしさに、嬉しくて興奮して
寝付けないほどでした。遥か遠くに仰ぎ見ていたものへの扉のすぐ近くに
来ていたのだと気付いています。日々、主ご自身が御霊を通して一歩一歩
教え導いてくださっています。

互いを比べて恐れたり 不満に思ったり 自分を測ったりすることが
激減しました、私さえも!皆がただ主を見、主を愛し、主の御旨が成る
ことを願うように変えられてきている。心が一つになってきている。
何とも嬉しいことです。

私の病気においても、主から与えられている御言葉をただ信じる
ところに導かれ、信じたらそのとおりになる、ということへの信仰が
与えられました。これからまだまだ生きられる…主が真実であること、
そして復活の領域の証をするために…、と言う信仰だけで、もうその
喜びは大変なものでした。生きられる という喜びはその一部に
すぎません。ただ御言葉は本当であるということが本当にわかった喜び
です。これ、本当にわかったら、私たちは冷静でなどいられるはずが
ありません。あまりにすごいことなのです。

どうやら、今回この病を通して主が私に与えてくださったレッスンが
終わりに近づいているのだと思います。
とにかく今、姉妹たちと共にワクワクしています。
これからあちこちで表れてくる証と実が大いに楽しみです。

主に対する心

私達キリスト者にかかわる「神の喜び」は一体どこにあるのでしょうか。
実は 主は私達が、ご自身のためにどれだけ働いているか、どれだけ
活動しているかを見られるのではありません。神はただ私達が純粋に
ご自身を愛するのを見て喜ばれるのです。

エペソにある教会は主のために労苦しました。それにもかかわらず、
彼らは「主に対する初めの愛」から離れました(黙示録2章)。
ですから、主は 彼らのその心の状態を喜ばれませんでした。主が
喜ばれるのは、彼らが「主を愛する愛という源」から働き出すことでした。
しかし、彼らはそうではありませんでした。

もしも主に対する愛情が無く、彼を真に愛していないのなら、たとえ、
外面的に彼のために多くのことを行ったとしても、また世の人々の救い
の為に「私の体を焼かれるために渡しても」また他のキリスト者達の
覚醒の為に日夜いくら叫んでみたとしても、キリストご自身への真の心
がないならば、それが何の役に立つでしょう。

「主のために」大変な努力をしている人でも「主ご自身を愛していない」
という可能性は十分あり得る、と言う事実を私達は知らなければ
なりません。しかしこれがかつてのエペソにある教会の実情でした。

主は常に私達の心を見られます。
「口で」主よ主よと言い続け「体で」一日中主のために労苦したとしても、
肝心の「心で」もしも彼を愛していないのなら、それは神の御前では
いかなる価値もないのです。

どうか、主に対して私達が ただ絶対的な心を持つことが出来ますように。
どうか、神が私に光をあてて「真実 私の活動は何ゆえであるのか」を
見させ、ひたすら主に対する私の愛の心が強められますように。


☆        ☆
ただ100% 主をのみ愛すべきである、と言う
「彼」の論調は続きます。
これを読んで下さっている兄弟姉妹の中には 
「それではキリスト者は、キリスト以外の人やものを絶対に
愛してはいけないのですか?あなたの言う意味は一体なんですか?」
「そもそも人がそんなに純粋になれるのですか?」と
質問したい方々も多いことでしょう。そのお気持ち、
よく分かります。
しかし、もう数回分を 忍耐をもってお読み下さい。
その後 「この今の論調を基礎として」ある展開を見るでしょう。

2009年7月23日木曜日

祭壇に下る火

私達は神以外のものを何と多く愛することでしょう。それは、或いは
アブラハムにとってのイサク、ヤコブにとってのラケルのように、
今私達の最も親しい人かもしれません。

神は私に対して、それらの私が最も愛する者を 敢えて「祭壇の上に」
置くことを求められます。主は「ご自身と競争する私が愛するもの」、
その保留を決して看過されることはありません。私達が所有しているものは
総て、神に対して完全に献げ尽くされるべきです。これは聖書全体が私達に
明らかに語っている当然の主張ではないでしょうか。その意味において今
「ほどほどに」とか「適当に」などと言う言葉は全く該当しません。ただ
単一に神を愛し、他の私の愛を祭壇の上に献げること、それだけが、
キリスト者が霊の力を得る方法です。

献げ物が祭壇の上に置かれる時、その時初めて、火は天から下ります。
祭壇(十字架)が無ければ、天からの火はあり得ません。私が十字架を
負うことなしに、即ち「私の愛する総てを主に献げること」なしに、
どうして聖霊の力を見ることができるでしょうか。祭壇にはその上に
置かれる献げ物は欠かす事が出来ません。何故なら天からの火は、ただ
祭壇の「いけにえ」のみを焼き尽くすからです。

兄弟達よ、頭で十字架を理解することによって、或いは、十字架について
語ることによって 聖霊の力を得ることは不可能です。聖霊の力を
得るのは、ただ 総てを献げ尽くすことによってです。
もし私達に、まだ寸断してない秘密の関係があるのなら、またもし私達の
心の中に 羊や牛、或いはアガグを神に献げることを惜しんでいる部分が
少しでもあるのなら、私達を通して現される聖霊の力を見ることは決して
出来ないでしょう。

キリスト者が「心を尽くして主を愛すること」がいかに重要であるかを、
私達は決して無視することが出来ないのです。何故なら、神に対する
キリスト者の愛以上に神の心を満足させ得るものは他には
あり得ないからです。それは神の心なのです。

☆    ☆
これは実体験から得た彼自身のリアルで切実な証でもあります。
それにしても、創造主が それほどまでに私達を愛されるとは!

2009年7月22日水曜日

愛は分割されてはならない

神はキリスト者達が完全に「ご自身のみを」愛することを要求
されます。主は信者の心が「ご自身と誰か」、或いは「ご自身と
何か」に分割されることに決して寛大ではありません。たとえ信者の
愛の大部分が主に対するものであったとしても、それでも主は
喜ばれないのです。

主は私達が自分の愛する者や物を、完全に手放すように求めて
おられます。神の要求は正に絶対的です。神はご自身の子供達の
愛情を、他の人やものが獲得することを少しも許すことが出来ません。

更に主は 私が「私流のやり方で」主を愛そうとすることを
願われません。神は私達が「神ご自身に従って」ただ神を愛すること
のみを願われます。こと愛については、主は私達が絶対的であることを
願われます。神はあなたの愛を独占したいのです!
主は本当に「ねたむ神」です。(出エジプト20の5)

非常に残念なことに、あるキリスト者達は「彼らが愛するものを
自由に愛し、また同時に主を愛することが出来る」と思っています。
彼らは、自分の愛するものを愛するのなら、同時に主を愛することは
不可能であると言う事実をまだ認識しておりません。

*
しかしながら、もしも私達の愛が決して分割されることなく、
完全にただ主にのみ献げられるのであれば、その時、信者の魂の命、即ち
「全く自分本位であった魂の命」はある決定的な致命傷を受けるのです。

「私はあなたの他に誰を天に持ちえよう。
地にはあなたのほかに慕うものはない」(詩篇73の25)

私達も神に向かい、この詩篇記者アサフのように高らかに言うべき
ではないでしょうか。「地にはあなたの他に慕うものはない!」
その時、私達は何と素晴らしい命の享受と解放を経験することでしょう。

「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。
これが大切な第一の戒めです。」(マタイ22の37、38)


☆      ☆
「もしも私達の愛が決して分割されることなく完全に ただ主にのみ
献げられるのであれば、その時、信者の魂の命、即ち全く自分本位
であった魂の命はある決定的な致命傷を受けるのです。」

それは何故でしょう。それはキリストの十字架に連結された
「あなたの十字架」には「生来のもの」に死をもたらす天的永遠的
神の力があるからです。その十字架の力があればこそ、初めて私達が
「神をのみ愛する」という可能性が生ずるのです。

しかしそのためにはあなたに対し、
ヨルダン川の死の水の中へと踏み入れる、
実際的な「小さな」一歩が要求されなければなりません。
なぜなら神は、一度人に与えられた自由意志を
とても尊重されるからです。
神にはあなたの信仰という
「協力」がどうしても必要なのです。

どうかあなたが、あなたに迫らずにはおられない
神の切実な愛の要求を 真に受け入れて下さいますように。

2009年7月21日火曜日

主に私の愛を献げること

キリスト者の経験において、おそらく最も難しい事は愛情に関して主に
服従することでしょう。しかしながら神は 何と他の何物よりも 私達の
愛情に最も注意を注がれるのです。神の「要求」は、信者が先ず自分の
愛を100パーセント神御自身にのみに献げ、「真に神を私の神とする
こと」であり「真に主を自分の主とすること」です。

私達はキリスト者がしばしば献身について語るのを聞きます。私達は
献身が 信者の霊的生活への第一歩であることを知っています。それは
霊性の到着点ではなく、献身した時に初めて「霊性への行程」がスタート
すると言うことです。献身は私達を聖別されて行く場所に導いてくれる
のです。従って先ずは献身(即ち自分の「総て」を主に献げること)が
なければ、将来 霊的な生活が存在する可能性は全くあり得ません。

さて私の献身において、献げるべき最も大切なものは私の愛情です。
キリスト者の献身が本物か否かは、真に私の愛を主に献げているかどうか
で分るのです。愛情は献身の試金石です。実は自分の時間、金銭、能力、
職業その他多くのものを主にささげることは比較的容易です。しかし、
私達の愛情を実際的に「主に献げ尽くすこと」は
決して容易なことではありません。

もちろん私達が「キリストを愛さない」などと言うはずはありません。
むしろ私達は気楽に「私は心から主を愛します」と叫びます。しかしながら
私は、主を愛していることは愛してはいるが、実は主以外の誰かを(或いは
何かを)第一とし、主を第二第三としているのかも知れないのです。また
主を愛するとは言うものの、本当は単に「自分自身の愛情」をひたすら
見つめ、それを後生大事にしているだけなのかも知れません。ということが
事実であるならば、私はまだ主を「完全には」愛していないのです。

私が持つべき極めて重要な認識は、もしもキリスト者であるならば、
何よりも最初に、主なる神に対して私の愛情が100%献げられねば
ならない、と言うことです。もしもそうでないのであれば、事実として
私は神に対して「まだ何も献げていない」ことになるのではないでしょうか。

☆       ☆

私の手元に持っている愛が、神にだけ100パーセント献げられるので
あれば、私の元に 愛はもう1パーセントも残っていないことになります。
その時、神以外に献げる私の手持ちの愛は全くゼロです。ですから
私の愛の対象は全部神です。私は完全に神しか愛しません:
神は先ずこのことをキリスト者に求められます。

しかし、不思議なことですが、その時になって初めてキリスト者は
「他人を自分と同じように愛する」ことが出来る筈です。何故なら
その時あなたは自分自身を完全に離れ、ひたすら純粋に「神のために、
神の中で、神の愛によって」人を愛するようになるからです。

大筋以上のようなことを彼は後のページで語っております。
もしもそれがキリスト者にとって可能な実際であるならば、
それこそあの「山上の垂訓」の成就ですね。

2009年7月20日月曜日

霊的な力と代価

前回の「人々を引き付ける力」が要求される働き人達が、
真実をこめて求めるべき「本来のターゲット」とは一体何でしょう。
それは他ならぬ「霊的な力」です。彼らは自己の能力を発展させて
魅力的な伝道者になろうなどとするのではなく、単一に
キリストにある真の「霊の力」を求めるべきです。

しかしながら、真の霊の力は、ただそれを強く願うだけで与えられる
ものではありません。それには実際的に「代価が支払われること」
が強く要求されるのです。

今それを簡略に言うとするならば以下のようになるでしょう。
もしも私達が 本当に自分の感情に対して死んでいるならば、結果として
私達はごく自然に「霊の力」を持つのです。私達が霊の力に欠けるのは、
余りにも多く自分の感情に従って生活しているからです。そして、
私達には あまりにも欲望、自分の好み、感覚が多いからです。

もしも私達が 確かに自分の感情に従って歩まないのなら、また総ての
ことで「自分自身を喜ばせる欲望と行為」を死に渡すなら、私達は
とても自然にキリストの命における力と能力とを見るでしょう。

それはキリストの十字架のより深い死が、十分私達を霊的な力で満たす
ことが出来るからです。これ以外に道はありません。十字架が私達の
欲望を対処し、私達を神のために生きさせる時、霊の力は私達から
静かに現わされるでしょう。

もしも信者が霊的な働きにおいて、「自分の感情に打ち勝つ」
(キリストの死の適用によって)のでなければ 感情は多くの方法で
私達の前進を明確に阻むでしょう。感情が影響を及ぼす限りにおいて、
信者の霊は感情を支配することは不可能です。

従ってその人が「神の最高のみこころ」を成就することは出来ません。
感情はあらゆる種類のものを用いて、彼の働きの前進を妨げるからです。


☆     ☆
私のような者に、上記のような物言いは
なかなか出来るものではありません。

「彼」はその奉仕の生涯において極めて過酷な代価を払い続けて
来たと言えるでしょう。しかしながら、主によって彼の自我が
奪い取られ、彼の中の旧創造を総て献げ尽くしたその墓の向こうにおいて、
彼が真に経験した、卓越した「霊の命の完全さ」と「御国の実際」
を思うとき、彼は人の払うべき「ほんの小さな代価」について
どうしても私達に語らざるを得なかったのではないでしょうか。

*
以上で「感情」についての総論はひとまず終りです。
次回はその各論として、先ず「愛情」です。
そこでは、更に詳細に述べられる「代価」への言及は
どうしても避けられないことでしょう。

2009年7月19日日曜日

伝道者の魅力

キリスト教の世界において今日強く求められているものは
よき働き人であり、更にその伝道者に「多くの人々を引き付ける力」
があるかどうか、と言うことではないでしょうか。

この時代において、もしも彼に様々な手段を駆使して人々を
引き付ける能力があるならば、要するに人々から見てその伝道者が
魅力的ならば、彼は有力な働き人なのであり、きっとその働きは
成功するだろうと見るのです。逆に人々を引き付ける力に欠ける
のであれば、働き人としては不適格であり、その成功はまるで
おぼつかない、とされるのです。

しかしながら、もしも以上のような「キリスト者の働き」についての
評価が正しいとされるならば、そこには「根本的に大切な何か」が
完全に欠落しているのではないでしょうか。そもそもキリスト者の
働きとはそのようなものなのでしょうか。例えば私達が使徒行伝
などを読む時、その様なものを高く評価するヒントの
一かけらでさえ見出すことが出来るのでしょうか。

「昨日の」使徒の意図は、「総て魂に属するものをことごとく
覆ってしまうこと」でした。何と「天然に属するもの」は総て
死の十字架に付けられなければならない、それがあの使徒の
明確な主張だったのです。

それでは「根本的に大切な何か」とは一体なんでしょう。それは
彼の腹から、聖霊と一つになった純粋な清い霊が流れ出ているかどうか
と言うことであり、彼の人間的魅力や能力などではありません。
そのような多くの人々を吸引する人の魅力が聖霊の働きを助ける
ことなど決してあり得ません。従って逆に、ある兄弟がたとえ、人を
引き付け、人を沢山集める能力に欠けているとしても、それで
彼が霊の働きを妨げてしまう理由には決してならないのです。

いずれにしろ、働き人が実際的に日々自分の魂の命を否み、真に
「霊に従って」歩まないのであれば その働きの結果は総てむなしい
ものであり、神がそれを評価することなど全くあり得ません。

2009年7月18日土曜日

「婦人の頭のおおい」と感情

使徒パウロは、総て女の人は祈ったり預言をしたりするとき、
頭におおいをかけなければならない、と言いました。これは一体
何でしょう。この事については人々の様々な説明や見方があります。
どの解釈が正しいのか、今ここで決めようとは思いませんが、
一つのことは明らかだと思います。

その意図は一つに「感情の働きを阻むこと」です。彼は人の生来の感情
から出てくる一切を完全に覆ってしまいたかったのです。特に婦人が
宣べ伝えたり祈ったりする時、容易に人々の感情を刺激してしまう
傾向があります。おおいと言うものは身体的に言えば、頭を覆う
だけでよいのですが、これを霊的に見るなら、その目的は「感情に
属する総てのもの」を完全に覆ってしまうこと、即ち「感情を死に
渡す」ことです。これは十字架です。

聖書では男は頭をおおいなさい、とは言われていませんが、
霊的な意味では 兄弟達も同様にやはり頭、即ち「思い」のみならず
感情をもおおう必要があるのです。

このことから、感情というものは 神の働きにおいて、容易に表に現れて
しまうやっかいなものである、ことを見ることが出来るでしょう。それを
より詳しく言うならば、キリスト者は総て、私達の魂にある感情の命、即ち
「感情を動かす生まれながらのエネルギー」を完全にキリストの死に渡す
必要がある、と言うことです。

さもなければ、聖霊は私達において、私達の魂の一機能(感情)を
神の器として自由に使用することが出来ないでしょう。
私達の生きる力の総ては完全にただ聖霊から来なければなりません。
本来キリスト者の生きる力即ち「命」は私達天然の人の中に存在する
はずがありません。聖霊にある「キリストこそが私達の命」でなければ
ならないのです。ただキリストだけが私達の総ての力です。

☆    ☆
ここで言う「預言」とは未来についての予告のみでなく
「神のために立って語ること」を意味しているでしょう。

2009年7月17日金曜日

ジョイフルホンダのスズメ

山形温泉旅行のおみやげ話 楽しく拝読。
よかったですね。
福島にも行かれた!
それは何だかとても嬉しい。

*
最近は私、午後 本を読んだり祈ったりするために 
ジョイフルホンダに一人で出かけております。
涼しくて広いのでとても快適なのです。

そこのレストランのスズメ達(もちろん野生の)は 
パンくずを拾いに なれなれしく
人のすぐそばまで来るのです。
いやかわいいものです。

それで今日はこれから
米を持参で 出かけます。

「人に永遠の命を得させること」と感情

人に神の福音を伝えようとするとき、私達は或いは いろいろな
方法を用いて感動を与え、キリスト教に対する興味を持たせようと
するかも知れません。また人に過去を悔いさせ、悲しませ、
恥ずかしく思わせ、そのようにして来るべき裁きを恐れさせようと
努めるかも知れません。更に人にキリストを賞賛させ、そして遂には
他のキリスト者と接触することを願わせることに成功するかも知れません。
その時その人はもう素晴らしいキリスト者のように見えることでしょう。

しかしそれだからと言って、その人が再生(新しい永遠の命を受けること)
を受けたわけではありません。興味、後悔、悲しみ、恥ずかしさ、恐れ、
賞賛、願望、あわれみ、喜びなどを感じさせることに成功したとしても、
それらは単に種々の感情の作用に過ぎません。人はそれらの全部を
体験したとしても、依然として彼の霊は死んだままなのです。

何故なら、彼はまだ「新しく生まれて」はおらず、彼の「霊の直覚
において」神を知ったのではないからです。それらは総て感情の作用に
過ぎないのであり、それらが真の再生を証明するわけではありません。
再生の現れとは、人の霊が生きること、霊が生き出すことであり、
再生された人の直覚において神を認識する(神を知る)ことです。

もし私達の目的が人々に「キリストの命を得させること」であると
分かっているなら、むしろ感情を用いて彼らにキリスト教を認めさせ、
キリスト教に好感を持たせようなどと試みるべきではありません。

人は本来神の命に欠け、その霊は死んでいること、それ故に「人の霊を
新たに生かすこと」こそが真の必要であることを私達がハッキリと知る時、
自分自身に頼ってなされる働きは総てむなしいことを認識するでしょう。
どれ程人が変わったとしても、それは その人の「自己と言う範囲」の中で 
ある変化が起こったに過ぎません。彼はその範囲を一歩も出たわけでは
ありません。要するに彼は感情に与えられたある感動によって
生来の「彼の魂の中で」ある変化をしたに過ぎないのであり、
彼の霊に決定的に永遠の命が分与されたのではないのです。
それだけでは神の御前においては何らの価値もありません。

ですから「霊的目的には霊的な方法を必要とする」という事実を
私達が真に見る事が出来ますように。私達の霊的な目的は
人々を再生させることです。それ故私達が働くとき、
ただひたすら「霊的な方法」に頼るしかない筈です。

☆    ☆
再び「感情」の総論に戻って来ました。

2009年7月16日木曜日

感覚の生活と本分(2)

信者はキリスト者の最高の生活が「人の本分」と矛盾するものでは
ないことを知るべきです。ローマ書、コロサイ書、エペソ書の後ろの方
を読むとき、キリスト者は「人の本分」を果たさなければならない
ことが分かります。

キリスト者のあるべき生活は、決して限られた場所と時間に限定される
ものではありません。それはいつでも、どこででも十分に表現される
べきです。従ってここだけは神にいてもらいたくない「私だけの場所や
また時間」などあるべきでありませんし、また神の前では比較的低劣な
時間帯などもある筈がありません。家事を行うことと、メッセージを
すること、祈ること、病床に伏していなければならないことの間に全く
何の優劣もないのです。キリストの命は、ありとあらゆる私達
キリスト者の生活を通して表現されなければなりません。

現在おかれている私の立場と状況に対する不満(この状況では 本分を
果たすことができないとする不満)は、実は私達が「感情の生活」を
している結果です。私達が反抗する理由は「私が願っている私の幸い」が、
この状況においては得られそうもないと思うからです。しかし本来、
キリスト者の生活は決して「自分の幸い」のためではありません。

それでは何故 私達は幸いを求めるのでしょうか。なぜなら、私達が
陥りがちな「私の感覚主導の生活」は、私に与えられた本分を重んじ
なくてもよいからです。しかし信仰の生活はそうではありません。
神に対する私達の愛は、私達の友人(周囲にいる人々)や敵に対して、
私の本分を捨てるように求める筈はありません。もし私達が
総ての事柄で、総ての時間、神と結合しているなら、あらゆる人に
対する私の本分が何であるのか、どのようにして彼らを助けるべきか
を知っている筈です。

*
Sugar 私見:
7/10の続きです。これは感情についての総論ではなく、
そのもとの1項目、「感覚の生活」の一部です。先回、うっかり
この部分の紹介を忘れてしまったのです。

2009年7月15日水曜日

神の愛は本気です

「私は今 一日中 
十字架を離れることが出来ないのです」
と言うあなたのお言葉、
実に貴重なものとしてお受け致しました。

*
「人の中の旧創造すべてを処する十字架」
それが今 生きてあなたの前にあるのですね。
それにしても、考えられないほどです、
旧創造の「総てを」とは。

神が与えたあなたの十字架、
それが 単なる美辞ではなく、
ある日私達の手が触れる現実となり
そして私の目の前に迫って来るとき
殆どのキリスト者にとって それでも
自分の中に強い抵抗を
感じないわけには行かないでしょう。

しかし十字架は
私とあなたを決して逃がしはしないのです。
なぜならば、
そこには、私に対する神の愛という
とても確かな裏づけがあるからです。
だから私も進んで、そして喜んで「それ」を捨てるのです。

これは確かに、
人の魂の感覚など物ともしない
この世に存在するあらゆる実感を超えた実体・信仰
と言う驚くべき賜の所産です。
それは明らかに人に訪れる最初の奇跡であり、
決してこの世のものではありません。

この道を真に歩もうとするキリスト者に対し 
真の「甘美さ」、即ち永遠の世界において 
決して動くことのない「御父と御子の間にあった甘美さ」
にさえ到達させようとする
神の本気の取り扱いは何と真実なことでしょう。

2009年7月14日火曜日

あるメールから

私達はともにこれから
主の十字架の死のパワーを見せていただこうと思っています。

すべての取り扱いは結局のところ、私たちが世にあって主を知ること、
そして、主の御愛を本当に知ることの幸いにあずかり 主の御からだ為の
器となるために 妨げになっているものを処理することが目的なのでしょう。
つまり、「神が神である」ことを私たちが学ぶためのお取り扱いですね。
主に明け渡した者達に対しては、決して敵も大きなことはできません。
いや、敵がすることは「主の御手の中で都合の良い道具となる」
だけですね。

苦しいことを経る中で「感情や体の反応」を客観的に見て、それなりに
対処することもできるようになって来て 翻弄されることが少なくなり、
とても楽になりました。

世の暗闇の中で 私たちは神を知り、感謝し、主そのものである
平安、喜びを享受しつつ、真に主に寄り頼み、主を礼拝する者と
なって行く。求める者は皆その過程にあるのでしょうね。
元気な人たちを羨ましいとは思いますが、でも、もっと素晴らしい
ものを知り味わう機会を与えられていることを感謝しています。

読むことも、PCの前に座っていることも
あまり簡単ではなくなってきています。
これからは ますますそうでしょう。
でも主は真実であり、十分です。

主の愛を心から感謝します。

霊の働きと感情

別のところでも強調したことですが、ただ霊だけが
「霊の働き」をすることが出来ます。総て他の働きは
霊的には何らの価値もありません。

今日、人々は人の心理に多くの注意を払っています。主の働き人
の中にも熱心に心理学を学んでいる人がいます。もしも 自分の
メッセージが人々の心理に受け入れられるなら、多くの人を捕らえて 
彼らを主にもたらすことが出来ると思っているのでしょう。しかし
この心理というものは所詮人の感情の作用です。感情に頼ることは
全く霊的な意義はありません。

私達は、人の最大の必要は再生、霊の中の再生であることを
知っています。ですから、もし人の死んだ霊が生かされ「非受造の命」
(創造されたことのない神の命)にあずかり 再生された霊に、聖霊を
内住させることが出来ないなら、どんな働きも全く役に立ちません。
もし信者の働きの目的が、命を他の人に分け与えることでなければ、
その宣べ伝えの結果は、人に悪魔を拝むように勧めるのと少しも
違いがありません。心理学は人に命を得させることは出来ません。
聖霊御自身が働くのでなければ、一切はむなしいのです。

感情は完全に天然に属するものであり、それは神の命を源とする
ものではない と言うことを信者は認識しなければなりません。
どうか私達が、感情には「全く神の命はない」ことを 
本当に知ることが出来ますように!

ですから、涙を流すとか、悲しい顔をするとか、或いは声を出して
泣くなどして、感情の力を用い、人を救おうと考えてはなりません。
総ての感情の働きは「人の暗くされた死せる霊」に対しては、どんな
方法をもってしても いかなる影響も与えることは出来ないのです。

聖霊が人に命を与えるのでなければ 誰も命を受けることは出来ません。
もしも私達が聖霊に頼らないで感情に頼るのであれば、私達の働きは
総てむなしいものとなり、真の価値ある効果は全く期待出来ないのです。
感情は決して人に命を与えることは出来ません。主のために働く人は
ハッキリと見なければなりません、もしも自分に頼るならば、
人の中に神の命を生み出すことなど全く出来ないと言うことを。

*Sugar 私見:
「感情」の総論の中の「霊の働きと感情」に入りました。
この部分の紹介は多分あと2、3回を要するでしょう。

2009年7月13日月曜日

ねたむ愛

この道は一つの原則があるだけであり、自己のための余地は
残されていません。神の御こころからの少しの逸脱でさえ、
私達をこの道から運び去るでしょう。
魂の命が消滅させられ、自分の習慣、好み、願望、切望が
一つ一つ砕かれ、もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる時、
その時必然的に、私はそれを 困難な道であるとは感じないでしょう。

残念ながら、多くの信者達は門にも入っておらず、この道を
歩いてさえいません。またある人は忍耐がなく、甘美な地点に
到達する前にこの道から離れてしまいます。

*
今朝 以上の言葉に対する
「あなたの真摯な文章」をもう一度 読み返しました。

「習慣、好み、願望、切望が一つ一つ砕かれ、
もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる。」
これは決して ヨハネの書簡で言う「罪なき完全」のことでは
ありません。「罪なき完全」は当然あり得ません。それは偽りです。

しかしここで言われているのは 
「ある段階に到達した信者達」の堅実な様の描写です。
このような信者はあり得ないのでしょうか。
イエイエそんなことはありません。
私達はあの多くの証人に
雲のように取り囲まれているではありませんか。
(ヘブル12の1)

今日のキリスト者にはある種の 根拠のない「あきらめ」がある
ように思います。(それも敵の企てではないのですか)
ですから、「間違った霊性」が信ぜられ宣伝される可能性があり、
また「習慣、好み、願望、切望」は神が許しているからいいのだ、
神はこの世のお父さん以上に、度量のとても広いお方ではないのか、
と自らを慰めるキリスト者も多いのです。

ここで言う「習慣、好み、願望、切望」は、
神に隠れた所で求める、神から独立した、
「私の世界」の中の、
私一人の為の、私のための
「習慣、好み、願望、切望」と言う意味に限定されます。

もしもそうであるのなら、
私個人に対する「神のねたむ愛」は それらの一つたりとも 
ただの一分間さえ許すことは出来ないはずです。
例外的にその点においてだけは 
神の度量も極めて小さいのです。

その「死と黄泉のような愛」の故に、
「私」のための「習慣、好み、願望、切望」が
真に私の深刻な悩みとなり、
次にそれらの一つ一つが丁寧に
私の心からの祈りの中で
キリストの死に重ね合わされる時、
キリストの十字架の霊的な死の力は
私の十字架へと 時空を超えて確実に伝達されます。

その後 ある時に至り、 
確かな天の「殺す力」が 
私にさえ フトありありと
確認されるに至るでしょう。

☆     ☆

多分、私の分を超えたであろう
このような発言を
どうぞお許しくださいますように。

2009年7月11日土曜日

一つの実際的なアドバイス

もしキリスト者が内的に混乱しているならば「そのような時
神が彼を導くことはあり得ない」と言うことを覚えておくこと
だけでも益があるでしょう。これは多くの失敗から彼を守ります。

心が混乱し、感情が騒いでいるときに、決して何事かを決定
したり始めたりするべきではありません。もしもその感情の
おもむくままに行動するならばきっと間違えてしまうでしょう。

*
感情が混乱状態にある時には「思い」も信頼できません。思いは
感情によって大きな影響を受けるものです。一旦思いが弱くなると、
何が正しく何が間違っているかを見分けることが非常に難しくなります。

そのような時には、同時に彼の「良心」でさえ頼りになりません。
感情が乱れ、思いが欺かれている時、良心は正しいか間違って
いるかを正確に見分ける標準を失っているのです。

そういう状況においては、信者が何を決定しようと、それは
不正確になり、その行動はあとあとまで悔いを残す結果と
なるかも知れません。

*
感情の乱れを感じたなら、キリスト者は意志を用いて感情を
拒絶し、感情の動きを停止しなければなりません。
感情が揺れ動かなくなり、完全に静かになった時にのみ、
人は正しい決定をする可能性があるのです。

いずれにしろ、生活の中で信者は、なるべく自分の感情が乱される
ような事態を招かないように注意しなければならないのは
やはり当然のことなのです。

☆
Sugar 私見:
再び「感情」の総論に戻りました。今ようやくその総論の
終わりに近づいています。

このアドバイスで言われているように、日常生活において
私達が「自分の感情をおさめようとする試み」は決して
無駄なことではないでしょう。
むしろ「霊によって感情を支配出来る」キリスト者であった
としても、絶えず目を覚まし、感情に対して目を配り続ける
と言う配慮は やはり欠かせない事ではないでしょうか。
「霊的な人になれば自分を放棄し、成り行きに任せても、聖霊が
彼の総ての責任を取り、自然にその人を霊的な状態に守られる」
などとするのは完全な幻想です。

2009年7月10日金曜日

感覚の生活と本分

キリスト者が「感覚的生活」によって支配されている時、
彼は他の人々に対して果たすべき彼本来の本分をなおざりにする
かも知れません。なぜなら感覚の生活は自己を中心とするからです。
そういうキリスト者が人々(キリスト者と他の人々)の必要に
真に心を留めることはないでしょう。

信者は感覚ではなく、信仰と意志を用いて自分の本分を果たさなければ
なりません。本分を果たす責任は感覚にはよりません。他の人に対する
私達の本分は定まっていますし、自分自身の働きに対する本分も定まって
います。それは確固としたものであり神によるのです。それらは決して、
感覚によって軽々に変わるものではありません。本分とは「原則に
従って」成し遂げられるべきものであり、それは私達がどの様に感じるか
によって変化する事はあり得ません。

感覚によって支配されているキリスト者は、もし彼の主との
交わりが非常に幸いならば、そのような時間を深く愛します。
彼が一旦、楽しい感覚の中で幸せを経験する時、彼の最大の望みは、
出来るならいつも主と共にいて、自分の周りの他の事柄をあまり
顧みることなく、一日中その幸いの中にいることです。
そのようなキリスト者は、出て行って働くことを好みません。何故なら
世に出て行くならば、さまざまな誘惑と困難が避けられないからです。

彼が主と顔を合わせている時、自分が聖く勝利であると感じます。しかし
いったん自分自身の本分を果たすために出て行くなら、彼は以前のように
敗北し、自分が汚れていることに直面しなければなりません。それは彼に
とっては非常に辛いことです。彼は自分の本分を「世的なもの」のように
考え、聖くて勝利を得た自分が関心を持つことではない、と考えるのかも
知れません。ですから、主との交わりを持つ時と場所は
非常に大切にするのですが、彼の幸いを妨げる彼の本分に対する
責任はおろそかにしてしまうのです。

もしもこれが実際の親ならば、そのような親は子供を養育することが
出来ません。まともな親であれば 育児を楽しいとか楽しくないとかの
感覚でするわけではありません。(親は育児の喜びを感じることが
ないと言っているのではありません)同様に、感覚的なキリスト者も、
主に忠実に仕えることは難しいのです。彼らは内心 これらのことは
世的で些細な事に過ぎないのであり、自分は霊的で素晴らしい
ものを追及しているのだから、自分の様な者が関心を持つ必要は
ないとするのです。これは極めて大きな誤解です。

*
この理由は、彼はまだ十分「信仰によって」生活していない
ことによります。彼はまだ煩雑な日常生活においては、神との
結合の中にいないのです。

だから彼は隔離された特別な時間と場所の中で神と交わることが
出来るだけです。彼は「総てのことで、24時間」主の臨在感覚が
あろうとなかろうと、ただ信仰によって見えない主を仰ぎ望み、
主と共に働くことをまだ学んでいません。彼は普通のわずらわしい
人間生活の中で、どのようにして主との結合の中にあるべきかを
まだ知らないのです。彼が神を経験する範囲は、
ただ感覚の中に制限されています。

ですから、彼は山に留まり一人長い間、主と共に住むことは喜びますが、
山から下りて来て(人間生活の中の)悪鬼を追い出したくはないのです。

☆
Sugar 私見:
先回までの掲載は先人による「感情に関する総論」の一部でした。
総論の後は 愛情、欲望、感覚の生活、信仰の生活、という各論に
移ります。今日の紹介は その中の「感覚の生活」の小さな部分です。

簡単に述べられた「事実→信仰→経験」に関するメッセージはよく
耳にもし、私達も「分かった積もり」になり勝ちなのですが、実は
それは「極めて大きな森」のような巨大なテーマであることが
分かります。その一部でさえ安易に入り込むことは出来ません。
感情や感覚と言う、実際生活で扱う段になると非常に難しい問題も、
この巨大テーマのごく一部に過ぎません。

また、この森に入り込むには常に「全体と詳細部分」を見わける目を、
即ち全体を部分から、部分を全体から見る目を失うことがないように
細心の注意深さが必要のようです。

2009年7月9日木曜日

三つの欲望

お答えします:
私達には確かに
家族など他人のために自分の義務を果たすと言う
「人の本分」はありますが
いかなる環境も人も、それらを変える義務はないし、
その使命もありません。
また明らかに私達にそのような能力は無いのです。

ただ唯一与えられている責務は、
一切の自分の欲望に対して
「私」をキリストの死に重ねて滅ぼし、私の環境の中に
「神の欲望とサタンの欲望のみを残すこと」です。
そこに私の欲望が少しでも残っているならば、
神に大きなハンデを与えることになるでしょう。
私の欲望は完全に舞台から退却しなければなりません。

*
追伸:
真に「神の欲望とサタンの欲望のみを残す」ならば、
続いてその人は「神の欲望を即自分の欲望とする」筈です。
その時初めて神は、その環境を、彼を通して変えることも
可能となるのです。

2009年7月8日水曜日

神の原則と感情

正常な行動は必ず一定の原則に従っています。
霊には法則と進路と原則とがあります。従って霊に従って歩くとは、
全面的に霊の法則に従って歩くことです。

霊の原則において、総ての是と非の「おおもと」には、明らかに
定められた基準があります。空が晴れていても曇っていても、もしそれが、
しかりであれば 必ずしかりです。その人が幸福でも、落胆していても、
もしそれが否であれば否です。そのように、正常なキリスト者の生活も、
必ず一定の原則に従ったものです。

さて感情による生活は、原則に従った生活とは全く異なります
もし信者が自分の感情を死に渡していなければ、彼の生活はきっと
基準のないものになってしまうでしょう。何故なら、感情は
勝手気ままに変化するからです。

従って彼の生活には定まった原則がなく、彼は変わりやすい感情の
感覚に従って生きてしまうのです。自分の感情に従って歩む信者は、
あることを行うかどうかを決める際、神の原則などあまり意に介さず、
或いは忘れ、そしてまた「人の正当な理由」(本分)も尊重しません。
彼は自分の感情に強い影響を受け、ついそれに従ってしまうのです。

そういう人は、もしも自分の好むものがあれば、当然それを自分の喜びと
するでしょう。ですから愛するものが目前にあれば、それを行うのが
明らかに不合理で原則に反することが分かっていても、彼にとって
それは強い誘惑となります。恐らく彼はそれを実行してしまうでしょう。

逆にもし彼の心がその時 冷淡、憂鬱で、意気消沈しているならば、
彼が本来なすべきことも果たさないかも知れません。何故なら、彼の
感情が原則について行かないからです。

このように、もしも神の子供達が自分の感情を少し観察して見るならば
いかに自分の感情が変わりやすいものか、また感情にしたがって歩く
ことがいかに危険であるかを認識するでしょう。

もし、彼の感情や趣向が「神の原則」に適合する場合だけそれに従い、
自分の感情に合わないならばそれを拒絶する、のであるならば、
それは全く霊的な生活とは言えません。
誰でも霊的な生活をしたいと願うなら全面的に瞬間瞬間、神の原則
のみに従って歩かなければなりません。

*
Sugar 私見:
先人は「霊には原則があり、感情にはそれが無い」と
言っているようです。確かに「聖霊が内住する自分の霊」に
従わなければ、私達は「実に勝手気ままな感情や自分の好き好み」or 
その時の「気分」に常に強く左右されながら生きるしかありません。

さてこの「気分」と言う日本語はその「感情の気ままさ加減」を
絶妙に言い表している言葉ではないでしょうか。実に私達の「気分」
は奔放です。それは時に私を全く無視しているかのようです。
一体このような「気分の源」はどこにあるのでしょうか。

この箇所において、先人は、それは「環境の影響である」と言われる
のですが、本当に環境のせいだけなのでしょうか。私的には「気分」は
「いわゆる環境」の背後に潜む「目に見えないある影響力」と関わりを
持つかも知れないと思っております。従って、仮にもし「気分にも原則
がある」とするならば、その原則は多分その様な「影響力達」が本来
持っている原則なのでしょう。そしてその原則とは「死と分裂」と言う
トンでもない「原則」であることを私達は知らなければなりません。
(実はこのテーマについてはある所で先人も語っておられます。)

2009年7月7日火曜日

感情に従って歩いてしまう理由

キリスト者が霊に従わず、感情に従って歩んでしまうのは
どうしてなのでしょうか。二つの理由が考えられます。

先ず、信者が霊に従って歩むことを真剣に願い、追い求めないからです。
少なくも真剣さがなければ、このことが達成されることはあり得ません。
ですから、この場合 当然彼は感情に従って生活するでしょう。

彼は感情が動き、それが衝動となるとき、仮にまずいと感じたとしても、
それをどのように否むべきかを知りません。
ですから結果、感情に流され、行うべきでないことを行ってしまうのです。
しかしそれでもその際、彼の霊の直覚に全く霊的な感覚が生じなかった
わけではないのです。しかし、彼のある弱さの故に、彼は感情に耳を傾け、
直覚を無視してしまうのです。
その時 感情は更に強まり、彼は全く自分を制御できなくなって
しまいます。しかし、実行した後で悔いるでしょう。

*
もう一つのケースは、既に霊と魂の相違を経験的に知っている信者です。
彼らは感情の影響を受けると、これは感情からのものだと分かり、
直ちにそれを拒絶します。

しかしながら、このような信者でさえ、感情に従って歩く可能性が
あります。それは「ある欺き」によるのです。彼の感情がしばしば
「霊的感覚を装う」からです。この場合、彼には外見上、彼の感情と
霊的感覚は全く同じに見えてしまいます。これは彼の「ある無知」に
起因します。ですから、ある程度 霊的な識別のある人でさえ、
感情に従って行動することは十分あり得るのです。

☆
Sugar 私見:
先人はここで、二つの理由についての概要を語っているに過ぎません。
特に第二の理由に関しては 後に相当のページをさいて
詳細に述べております。

霊と魂の問題は、決して安易な問題ではありません。
そのことに言及された際のイエス御自身の真剣さを知ればそれが
分かります。しかしそのイエスの心からの言葉は、弟子達の頭の上を
風のように吹き抜けてしまったようです。彼らはその直後決まって、
自分達の間で誰が一番偉いのかと論じたのです。(あなたの魂を
捨てなさい、と言われた直後に)

私自身、この問題には少なくも「決してあきらめない
粘り強い真剣さ」がどうしても必要であると考えております。
真剣に叩かずして、どうして天国の門が開けてもらえる
(パラダイスに連れて行かれるではなく)でしょう。更にその上
洗礼者ヨハネのように、天国は「奪い取る」必要さえあるのです。
(マタイ11の12)

2009年7月6日月曜日

冷静さの性質

ここで私達は、ある点に注意しなければなりません。
もしも、ある人の感情が静かで冷静でありさえすれば、彼は霊の
支配下に入り、彼は霊的になったと言えるのでしょうか。
当然そうではありません。この時 重要なのは、彼の冷静さは
一体どんな性質のものか、と言うことです。

あるキリスト者が、もしも感情の高ぶりによって手痛い失敗を
すると、きっと彼はその感情を抑圧しようとするでしょう。そして
もしも何とかそれに成功したと思うならば、或いは
「私は冷静になった、だから霊的になったのかな」と
思うかも知れません。しかしこれは明らかに誤解です。

また感情の高ぶりの後、そこに一種の反作用が生じ、
感情の自然現象として、その後 冷静さが生じることがあります。
しかし当然、これも霊性ではなく単なる感情の別の面が現れた
に過ぎません。

*
以上のような魂から生じる冷静さは、彼をしてむしろ、神のことについて
興味を失わせ、他のキリスト者への愛を減少させ、或いは交わりを慕わなく
させることに繋がるのです。或いは彼は冷静になったのではなく、
単に冷たくなっただけなのかも知れません。そうであれば、これは彼に
とってはむしろ後退です。正常なキリスト者が「真の情熱」を
失うことなどある筈がないのです。

大切なことは、今存在している冷静さが、彼の魂が真に
十字架によって取り扱われた結果であるかどうか、と言うことです。

☆
Sugar 私見:
神はいかなる「よきもの」でさえも「生来の人」を源とする
一切に反対されます。それこそキリストの十字架が主張することに
他なりません。「キリストの十字架は旧創造の一切を含む」と言う
「聖書における最大の神の宣告」は、私達一人一人に極めて重く鋭い
チャレンジを投げかけていると言わなければなりません。私達は、
しかしそれを「神の過酷さ」として感じるのでしょうか、それとも
喜びの中で「キリスト者への福音」として信じ受け入れるのでしょうか。

*
先人は「実際的な日々の十字架の適用」については、別の箇所で
極めて詳細に論じております。この言わば「キリスト者の為の
感情論」は、従って、彼が既に述べた「実際的な十字架の適用」に
関する読者の「真の知識」を前提としていると言えるでしょう。

しかし、先人のどんなメッセージを見ても、十字架への言及を伴わない
ケースはとても少ないのです。何故なら十字架の適用の範囲は広範囲に
渡る上に、その一つ一つが極めて深いものであるからであり、また
総ての聖書の項目の根底には必ず十字架が横たわっているからです。
従ってこれから このシリーズの随所にも十字架への言及が現れて
来ざるを得ないと思われます。(ただしこの「感情シリーズ」を私が
いつまで続けることが出来るかは定かではありませんが・・)

2009年7月5日日曜日

霊の感覚と感情の相違

それでは、
霊からの感覚と、そして感情は どのようにして識別したらよいの
でしょうか。先ず感情ですが、それはいつも人の外側からやって来ます。
しかし霊からの感覚は逆に必ず内側からです。霊感(と便宜上簡単に
いいます)は聖霊によって与えられるものであり、実に人の深い
存在からです。この点が両者の基本的な相違です。
それは、外からと内からの相違です。

*
例えば、人が美しい自然に接する時、自然に内面に一つの感覚が
わき上がって来ます。美しいなーと感じ、喜びさえ覚えるのです。これは
感情です。また、自分が愛している人を見る時や思うときに、何か
その人に私が引き寄せられる力が働くかのようです。これも感情です。
美しい景色も、愛する人も私の外にあります。このように人の外側に
あるものによって引き起こされる感覚、それが感情なのです。

*
しかし霊感はそうではありません。霊感はひとえに人の深い内側にあって、
「ただ聖霊の影響から来る」のです。聖霊のみが、霊の動き、感動を人に
与えることが出来ます。霊の所在は人の最深部であり、聖霊は更に霊の
内側に住んでおられるのですから、霊感は必ず内側から来るのです。

これは大切な事実ですが、
何と霊感は、美しい景色や愛する人のような外側からの刺激とは全く
関係がありません。それは独立しており、その主張は不動です。この点が
重要なポイントです。それは聖霊なのですから、当然と言えば当然のこと
でしょう。と言うわけで、霊感は外側からの影響が全くない場合でも、
即ち環境とは関わりなく十分起こり得るのです。霊への感覚は魂や、
更にその外の状況には影響されない独立的な、
しかし極めて奥深く繊細な「あなたへの主張」です。

*
それとは反対に、感情は外側からの働きかけ(刺激)がなくなると
すぐに、或いは間もなくなくなります。(思い出すことによって感じる
こともやはり外からであり原理は同じです。)ここに、外側の
環境と人の感情は強く繋がっていることを見ることが出来ます。
結局、感情は環境によって引き起こされるのです。

ですから、そのような人の生活が どうしても環境に影響されてしまう
のは避けられないことです。例えば、キリスト者をよい方向に向かって
前進させようとすれば、多くの場合、彼にはしばしば(or定期的に)
外から励ます状況や刺激する環境が必要となります。
そうでないと彼の前進は停止してしまうのです。

また彼は外側に、例えば体調不良などの「好ましくない憂鬱な環境」が
やって来るととても容易にその感情は混乱しその結果、彼の生活において
正常で穏当な判断が出来にくくなります。その結果、彼の生活も混乱して
しまうのです。これはキリスト者にもよく見られる光景です。

以上のように、おもに環境によって彼の感情が刺激され、次に感情に
強く影響されて、その人の生活が変化してしまうのであれば、その人は
「感情に支配されている人」と言わなければなりません。
(環境の変化→感情の変化→生活の変化となります。)
感情は魂の一部ですから、その人は霊的な人であるとは言えず、
やはり魂的な人ということになります。

*
所が、霊からの静かな語りかけは外側からの環境の刺激によって
影響されることは全くありません。ですから、もしもあるキリスト者が
その霊に従って歩くのであれば、彼は外の環境からの影響をあまり
受けることなく、内的な聖霊からの動機に従って、堅実に歩いて行く
ことが出来ます。従って彼の生活にアップダウンはとても少ないのです。
これは霊的な人です。

2009年7月3日金曜日

内的聖霊の声が無視される理由

*平静な感情の必要*
前回までに述べた事実から
霊に従って歩もうとするキリスト者にとって、最大の「敵」は感情
であると言っても言い過ぎではないでしょう。(もちろんここで言う
感情とは、感情の総てではなく、感情の命、感情を動かすエネルギー
のことです。以下、全部この意味で用います。)

キリスト者であるならば、肉ではなく、霊に従って生活しなければ
ならないのは当然です。しかし、霊に従って歩くためには、生活の
あらゆる時点で、キリスト者は内側の霊の導きに十分
注意していなければなりません。

霊からの「感覚」は極めて優しく、細やかで、繊細です。
ですから信者が注意深く「霊に語る聖霊の声」(直覚に)を
待ち望まない限り、彼が決して霊の導きを受けることはあり得ません。

従って、霊に従って歩くには「感情が完全に静まっている」必要がある
のです。霊の小さく繊細な感覚が、私達によって殆ど無視されがちなのは
私達の感情が、まるで押し寄せる大波のように大きな音を立てている
からです。そのような時、私達が、静かな霊の声に気づくのはとても
難しいことです。本来私達キリスト者は、霊の感覚を十分感じる取る
ことが出来る能力を持っているのですが、別の感覚が絶えず大声を
出して騒いでいるならば、霊の声を識別することが
全く出来なくなってしまうのです。

しかしながら誰であれ「感情を静寂に保つことが出来る」キリスト者
であるならば、直覚の声を察知するのはそんなに困難なことではない
ことを知るでしょう。

*
さて、感情の起伏は、信者をして決して霊に従って歩ませないだけでなく、
直接肉に従って歩かせてしまいます。
キリスト者であっても、霊に従って歩いていない時には、自然に肉に
従って歩くことになります。第三の状態はあり得ません。ですからもし
霊の導きを得ることが出来ないなら、自然に彼は感情の衝動や浮沈に
従って歩くのです。

よく霊に従って歩んでいるキリスト者であってとしても、霊の導きに
従っていない場合には、直ちに感情が彼を導くことを始めます。
そのような時、信者は自然に、感情を霊の導きのようにしてしまい、
魂の衝動を霊の感動のように誤解するのです。

*
Sugar 私見:
ここで言う内的な聖霊の声とは
人の内的な一機能である「人の霊」の中におられる聖霊の声です。
それは決して、人の魂や体に対し、超自然的に直接何かを感じさせる
「神ならぬ霊」の声ではありません。これの識別は極めて重要です。

さて、先人によると
「魂の感覚」よりも更に深いところから語られる繊細な声
を感知するには、
・感情を完全に平静に保つ
・聖霊の語りかけに大いに注意を払う
・その語りかけを待つ
ことは不可欠のようです。

とは言われても、私達としては「それでは、その感情を平静に
保つにはどうすればいいのですか」と聞きたくなりますよね。

2009年7月2日木曜日

十字架と結実

十字架は実を結びます。
総ての十字架は神の命の実を得させます。
神が与えられる実際の十字架を、
自ら進んで受けようとする者は、彼自身
「混ざりもののない霊の命」を生きていることを
見出すでしょう。

私達は、神の願いに従って、日々十字架を負うことを
実行しなければなりません。
総ての十字架には特別な使命があります。
その十字架は、必ず私達の中で「神の働きの一部」を
成し遂げるでしょう。
どうか私達に臨む十字架が一つとして
無駄になることなどありませんように。
(先見者の言葉より)

*
Sugar 私見:
上記の文は「先人の言葉」のシリーズとは
全く別のものです。

この文で分かること、それは:
①十字架は私のために、神がそのつど
一つ一つ測って与えられる、と言うこと。
②そしてもしも「私の十字架」における精度が
一定基準をクリアしているならば、
それは必ず神の御こころの一部を成し遂げると言うことです。
しかし、
③決して私達が直接神の働きをするのではない、
と言うことは重要です。それは当然のことであり、また
そんなことは不可能です。
私達に与えられた使命、それは日々、
神から与えられる十字架を進んで受け入れること、
ただそれだけです。

アップダウンの生活

人の生活における「感情のありさま」を観察すればするほど、
感情と言うものはひどく揺れ動くものであり、そんなに信頼出来る
ものではないことが分かるでしょう。
もし信者が霊に従って生きるのではなく、そのような感情に従って
生きるのなら、彼の生活も波のように揺れ動いてしまうのは当然です。

*
だから多くの信者は自分の生活を嘆いています。彼らの生活の姿は
あまりにも不安定過ぎるからです。ある時は、まるで第三の天にいる
かのようで、彼は喜びに溢れ、人生の一切を超越しています。ところが、
間もなくすると、彼はひどく意気消沈し、その有様は全く普通の人と
変わらないようになってしまいます。要するに、彼のクリスチャン
生活は激しく上がったり下がったりを繰り返しているのです。

しかしよく見ると、そのように彼を激変させるほど、外面的に何か
重大なことが起こったわけではないようです。実はホンの少し、
自分の意に反することが彼に臨んだだけで、そのような激しい
変化を招いてしまっている、というのが実情です。

このような現象は、彼が感情に支配されていると言う明確な事実を
示しております。彼は決して「霊に支配されている」と言うことは
出来ません。彼においては、明らかに感情が、その生活の大きな要素
となっているのです。要するに感情が彼を日々揺れ動かしているのです。

*
何故でしょう。一言で言えば、彼自身がまだ、真に十字架にもたらされた
ことがないからです。その結果、彼の霊が聖霊によって強められて
いないからです。言い換えれば、彼の霊は依然として弱いのです。ですから
彼の霊が彼の全存在を支配することなど到底出来ません。故に、彼が感情
に打ち勝つことが出来ないのは当然です。それはまた、彼の魂の中の感情
の命が、彼の中で第一次的な地位を占めているからだとも言えましょう。

もしも、感情の地位が彼の全存在の中で第二次的になるならば、
彼の感情は霊の支配下に置かれることになります。もし彼が聖霊によって
自分の感情の命を十字架につけ、総ての事柄で聖霊を主とすることが
出来るなら、彼は初めて、激しくアップダウンする
クリスチャン生活から免れることが出来るでしょう。
(先人の言葉より)

2009年7月1日水曜日

制御出来ない感情の二つの性質

もし私達が、感情に存在する様々な感覚に注意を払うなら、感情
というものは、いかに変わりやすいかが分かるでしょう。おそらく
この世において感情ほど変わりやすいものはないでしょう。
私達は今の一分間、何かを感じていたかと思うと、次の一分間では
たちまち別のことを感じているのです。感情は何らかの影響によって
変化し、そして決して留まることなく次々と変わって行くのです。

また人の感情にはしばしば「反作用」が見られます。つまり、
感覚が一つの方向でしばらく活動すると、それに続いて正反対の
感覚が生まれて来るのです。例えば、自分の中に生ずる悲しみは、
不思議にもしばしば幸福感の後に来るのです。実際に人を愛する
こともそうです。愛が始まったとしても、一ときを経過すると、
何かの影響によって、愛は何故かまるで正反対の激しい
憎しみに変わってしまうことさえあるのです。
誰がこれらを制御出来るのでしょうか。

*
Sugar 私見:
本当にそうです。仮に、私の中に①真の私と②感情、の二者がある
とすれば、一体、権威と力のある主人はどちらなのでしょう。
その場合、私が感情を制御するのは、相当難しいことです。
むしろ勝手気ままな「感情さん」が自由奔放に私を引きずり回し、
毎日私を困惑させ悩ませている、と言うのが実情ではないでしょうか。
しかし、確かにその感情は「私」でもあるのです。

2009年6月30日火曜日

感情の三分野:愛情、欲望、感覚

喜び、幸福、愉快、興奮、ため息、いらだち、刺激、落胆、悲しみ、
悲嘆、憂鬱、惨め、悲哀、動揺、混乱、心配、熱烈、冷淡、情愛、
好み、むさぼり、同情、慈愛、嗜好、欲望、興味、願望、期待、
高ぶり、恐れ後悔、憎しみ・・ 
これら総ては私達の感情から出てきます。

人の思考と関係する総ての働きは、考える器官、即ち「思い」
から出てきます。そして物事の決定に関連する働きは「意志」
から生じます。これら思考・思想と、そして決定を除く、
その他の機能は総て感情から出てきます。多くの多種多様な
感覚は感情の機能です。感情は非常に広範囲に及ぶもので、
殆ど魂的な信者は「感情的な信者」です。

以上の数多くの項目を下記のようにまとめる場合もあります。
それは、いわゆる七つの情感です。即ち:愛、憎しみ、喜び、悲しみ、
興奮、落胆、興味(無関心)です。これらは皆、感情に属します。

以上のように、人の感情は広範囲に及ぶ為に非常に複雑です。
今これからの理解を助ける為に便宜上、私達は感情を更に
簡単に、三つの部分に分けたいと思います。即ち、
①愛情、②欲望、③感覚です。この三つの部分は
上記の数多くの項目を総て含むことになります。

ですから、もしも信者が、この三つの面に「打ち勝つ」ことが
出来るなら、彼は速やかに「純粋な霊の命」に入ると言えるのです。
(先人の言葉より)

2009年6月29日月曜日

感情によって生きるキリスト者が多い

キリスト者が十字架の確かな御業を経験する前においては、「罪から
の解放」は経験したかもしれませんが、それでもまだ彼は魂に属して
おり、自分自身の天然の命に打ち勝つことは出来ません。

もしも注意深くその様なキリスト者の魂に属する行為を調べるなら、
その多くは感情から出たものであると分かります。
魂は思い、感情、意志という三つの大きな部分から成っていますが、
たいてい「魂的な信者」は感情によって生きています。ですから彼らは、
殆ど感情の命によって支配されていると私達は言うことが出来ます。
それ故、キリスト者の人生において、思いと意志よりも感情が
より大きな部分を占めているようです。こういうわけで、魂的な信者の
大半の行動が感情から出ているのを見ることが出来ます。
(先人の言葉より)
*
Sugar 私見:
①「魂的な信者」とは「肉的な信者」と「霊的な信者」の中間に位置する
信者であり、その生活が肉や霊ではなく魂の命(エネルギー)によって
生きている信者です。彼らは肉的なクリスチャンほど悪くはないとしても
霊的であるとは言えません。
上記の著者は、その魂的なキリスト者の多くは、感情主導の生活を
していると言いたいようです。即ち、「聖霊の内住する霊」がその人の
生きる力となってはおらず、その代わり、彼の感情がまるで生き物
のように彼の生活の活力となっている、と言う意味です。

②彼が言う「罪からの解放」の「罪」の意味ですが、ここでは、平たく
言えば「明らかな罪」と言った様な意味で使用されているようです。

聖書で否定的なものとして扱われているものは、罪の外に、肉、古き人、
おのれ、この世等があります。ある人々によれば、それらは総て罪である
と言いたいようです。しかし、それはやはり大雑把過ぎるのです。
いずれにしろそれらの用語を厳密に定義づけすることは容易なことでは
ありません。私達が出来ることは、それらを聖書がどのように使い
分けているかを知るくらいですし、そのような用い方でよいと思われます。

それらのものの中で、著者はこれから「おのれ」を取り扱おう
としております、「おのれ」の中の感情の命を。

2009年6月26日金曜日

感情の命が十字架に付けられる

感情を正しく用いる(2)

「魂を十字架に渡す」とは、魂の総てを失うことではなく、魂の中の
「命」が失われることです。決して魂の機能が失われるわけでは
ありません。魂の命を十字架に釘付けることは、私達がもはや
考えなくなる、決定しなくなる、感じなくなることではありません。
キリスト者がもし魂を失うならば、もはや彼は人の天然の命によって
生きるのではなく、ひたすら絶えず神の命によって生きるのです。

それは「進んで自己に従って生きることをしない」と言うことであり、
また自己の楽しみに従って歩くことをしないのです。そして
神の御こころに服することです。

繰り返しますが、十字架の死とは、感情が消滅することではありません。
魂の命の感情、思い、意志が十字架を経過することによって、それらが
無くなってしまうのではありません。それらはただ、主の死の中で
「天然の命」を失うだけです。

感情、思い、意志は主の命の中で復活します。死と復活は、魂の
機能する器官の中で「その命の部分」を失わせ、そしてそれらを
新しくし、初めて神によって用いられ得るようにするのです。

ですから再度言いますが、霊の人は感情が無いのではありません。
むしろその感情は最も安全で最も高尚であるはずです。彼はあたかも
神の御手によって新しく造られたかのようです。

もし誰かがここで困難を感じるなら、彼の理論のどこかに問題があるので
しょう。なぜなら霊的経験においてはなんらの問題も無いからです。

ですから結論として、感情はどうしても十字架の御業を経過
しなければなりません。(マタイ10の38~39)
それは生来の感情の持つ火のような性質や混乱を除き去り、感情が
完全に霊の支配に服するためです。
十字架の御業の目的は、霊が権威を持って、感情の機能を
支配することです。(先人の言葉より)

*
Sugar 私見:
命とは何でしょうか。こういう美しい響きを持っていて、しかも
ありふれた言葉は実は曲者です。何故なら普段、分かっている積もりに
させられてはいるが、その実、分かっていないことが多いからです。
私的には、命と言う単語が出て来たらすぐ「生きる力」と言い換えて
見ると、分かりやすくなると思っております。
例えば「キリストは私の命である」は「キリストは私の生きる力である」
と言い直して見るのです。

さて、上記の文の場合、魂を一つのマシーンに例えるならば、その内部の
各機械は思い、意志、感情(それらはまた数多くのパーツに分かれる)
です。それが魂が持つ各種の機能です。そして魂の命は、その各機械を
機能させるためのエネルギー、ガソリンや電力なのではないでしょうか。

元来地から出て来て、どうしても有害なガスや騒音を撒き散らしてしまう
ガソリンはもはや100%十字架で廃棄させられ、クリーンで霊的聖なる
エネルギーである電力が天から到来し、完全にガソリンに取って代わる必要
があります。(漢字の「電」も「霊」も雨冠であるのは面白いことです。
それらは上から、天からやって来てあなたに届き、
あなたの静かでクリーンな力、エネルギーとなるのです。)

2009年6月24日水曜日

人の霊に服するべき人の感情

感情を正しく用いる(1)

もしキリスト者が自分の感情に、十字架のより深い働きをさせる
なら、間もなく彼は、感情が霊を妨害するのではなく、霊と協力
さえすることを知るでしょう。十字架は「感情の総ての天然の命」を
対処し、感情を更新し、それを霊の器具とします。

前述したように、霊の人は霊ではありませんし、感情のない人でも
ありません。かえって、彼は感情を用いて、内にある神聖な命を
表現します。

神によって対処される前、感情は霊の器具になることは出来ません。
むしろ私達の感情は実に自由奔放に自分の願いに従って行動します。

しかし清められた後、感情は霊を表現する器官となります。霊は
感情を通して「真の命」を表現します。他の人の苦しみに対する
愛情と感覚を表現するために、霊は感情を必要とします。また、人に
霊の直覚の働きを感じさせるため、霊には感情が必要です。
霊の感覚は、静かな感情を通して人に知らせます。
もし感情が霊に服するなら、感情は霊によって神が愛する者を愛し、
神が憎むものを憎みます。

「感情に従って生きないと言う真理」を理解した後、「霊的な生活は
感情の無い生活である」と誤解する人がいます。彼らは結局、
キリスト者は木や石のような感情の無い者となるように、感情を
なくする必要があると思っています。信者が「十字架の死の意味」を
理解しないなら、彼は「感情を死に渡し、全く霊に従って生きる
と言う意味」を知ることが出来ません。

最も優しく、同情があり、憐れみがあり、愛のある人が霊の人なのです。
真に霊の人、感情を十字架に渡した人は感情を失って感情の無い人と
なるのではありません。霊的な信者の愛がいかに他の人と比べてその
愛が大きいかを見るとき、私達は霊の人が感情の無い者ではなく、
むしろ、その感情は優れて普通の人と同じでないかを知るでしょう。
(先人の言葉より)

*
Sugar 私見:
実際問題、上記にある 私の「感情に対して、十字架のより深い働きを
させる」。私の「感情が神によって対処される」「清められる」が極めて
大きな課題となるでしょう。正直、私自身、今それに圧倒されています。

*ケンの調子があまりかんばしくなく、いまだに実家におります。

2009年6月21日日曜日

人の意志

聖書によると、キリストの生涯には(父なる神とは異なった)
彼ご自身の独立した意志が働いていることを見ます。
しかし彼の自由意志は定められていました。

私達も、船のかじの様に「意志を定める」と言うことを
理解する必要があります。あなたが自分の意志を定めて、
神の御こころを行うとき、神は初めて働くことができます。
あなたの側では、絶えず神の御こころをあなたの生活の原則と
するのです。あなたは「このことにおいて神の御こころを
選択します」と言います。あなたは神の側に立ち、神に
その御こころを更に啓示して下さるようにと求めるのです。

キリストの意志は堅く定まっていたために、一瞬たりとも
神の御こころと協力することを失いませんでした。
「見よ、私は御むねを行うためにまいりました。」それは、
キリストが、神の御こころへと御自分の意志を向けるだけでなく、
そのことにおいて、彼の意志を積極的に用いることでもありました。

もしあなたもこれを、霊的生活の中心的な原則とし、あなたの
意志と言うカジを、それが神の御こころであると言う理由の故に、
変わることなく定めるならば、その時、神はカルバリにおける
キリストの勝利を、あなたに力を授けると言う方法によって、
あなたの生涯に適用して下さるでしょう。
それは、他の人たちも邪悪な霊の力から解き放たれるためです。
(ペンルイス・神の御こころの中を歩く)

*Sugar 私見:
「人は何も出来ない。だから神の御こころを選択する意志も神が
与えて下さる。そうでないとするのは傲慢である。だから、
キリスト者は何もするべきではなく、ただ待つべきである」
とする観念が私達の間にあるように思われます。しかし・・

①人が神の御こころを啓示して頂くように神に求める。
②聖霊によって霊の中に御こころが啓示される。
③自分の意志でそれを選び取り、他の感覚を退ける。
と言う原則は決して変わることはあり得ないと思われます。

私達による断固とした③の行為がもしなければ、以前
書いたように、必ずヘビが来て私達をだますでしょう。
人の意志は神とサタンの間において極めて決定的な
役割を演じているのです。今日も私は、エデンの園において
あの二本の木の間に立っているのである、と言えないでしょうか。

2009年6月20日土曜日

狭い道

これは真に狭い道です。しかし、困難な道ではありません。
なぜ狭いのでしょう。それは私達の総ての歩みが「神の御こころ」
によって規制されているからです。

この道は一つの原則があるだけであり、自己のための余地は残されて
いません。神の御こころからの少しの逸脱でさえ、私達をこの道から
運び去るでしょう。

しかしながら、この道は困難な道ではありません。
魂の命が消滅させられ、自分の習慣、好み、願望、切望が一つ一つ
砕かれ、もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる時、その時
必然的に、私は困難な道であるとは感じないでしょう。

残念ながら、多くの信者達は門にも入っておらず、この道を歩いて
さえいません。またある人は忍耐がなく、甘美な地点に到達する前に
この道から離れてしまいます。

しかし、その困難な期間が長いか、短いかに関わらず、一つのことは
確かです。唯一のこの道は命の道です。これは神の道です。それ故、
それは真実であり、確実です。
豊富な命を願うなら、誰でもこの道を歩く以外に選択はありません。
(先人の言葉より)

*Sugar 私見:
上述の「狭い道」は あの有名なの「山上の垂訓」の中、
マタイ7の14からです。
山上の垂訓は明らかに、未信者にではなく、私達信者、弟子
に向かって発せられたものです。(5の1)
永遠の命を得、永遠の救いを得る道は人々が思っているほど、
狭くはないと私は思います。しかし、キリスト者に限定されたこの
呼びかけにおける「命に至る門」は小さく狭いとイエスは
断言されました。
7の3の「滅び」とは命における永遠の滅びではなく、
(黙示録20の12「命の書」にその人の名前はある。)
神に属する者の生涯における行為や行いにおける崩壊
を意味すると思われます。(Ⅰコリント3の15)

2009年6月16日火曜日

クリスチャンの「商売」

クリスチャンとはキリスト信者です。
キリスト信者とはキリストを信じる人です。ですから、クリスチャンの
「商売、職業」はただキリストを信じることです。ですから、私達は
いついかなる場合でもただ、キリストを信じ続ければよいわけです。
私達の本質は believer であり、それ以下でもそれ以上でもありません。

ある人を信じるとはある「冷静な行為」です。ただ単純にその人の人格と
言葉を信じるのですから、特に興奮することも、盛り上がる必要もないし、
取りあえずは、その人をことさら熱く愛することさえ必要ではありません。
「ハイ私はあなたが一体誰であるかが分かりました。ですから、あなたと
あなたの言葉とを信じるのは当然です」とすることです。それが、本来
ある人を信じるという意味ではないでしょうか。実のところ、神が私達に
要求しているものは別に熱っぽさ等ではなく、私達のそのような態度です。
即ち、いついかなる場合でも、私達がキリストを信じ続けること、
それ以外の何物でもありません。

所が今日 
信仰の意味を誤解し、興奮や、盛り上がりが「信仰の主要な部分である
かのようにイメージされているのではないかと私は懸念しております。特に
キリスト者の集まりにおいては、その評価はひとえに「興奮と盛り上がりと
愛の高揚」にかかっているのでは、と感じるのは私だけでしょうか。

しかしそれは間違いです。本来 信仰と「興奮、盛り上がり、愛の高揚」
は何の関係もありません。むしろ信仰とは冷静な判断と意志によって、
黙ってキリストの言葉を信じることであり、それのみが
「信じるということ」の総てです。従って、よき信仰生活とは、
日常生活において、私達が神によって、いかなる環境、感覚のただ中に
置かれたとしても、先ずはそれらをかたわらに置き、ただ
イエスと彼の言葉とを信じ続けることに他なりません。

繰り返しますが、信仰は、本来人の感情や感覚とは全くかかわりを持たない
のです。信仰は人の生まれながらの感情や感覚よりも遥かに深い部分の
「行為」です。当然、正しい評価と意志によって主を信じた後に、ある種の
感情が付随することは充分あり得ることです。しかし、それは信仰の結果
であって、信仰そのものではありません。肝心なのは信仰であり、
信じた後、気まぐれに訪れる、いかなる「聖なる」感覚も決して過度に
評価されるべきではありません。

むしろそれらは直ちに忘れ去られ、私達は信仰そのものに戻るべきです。
もしもそうでなければ、私達はたやすく敵によって欺かれることでしょう。
何故なら、その時私達は「神が与えたよきもの」を、神であると
誤解するからです。これは極めて巧妙な敵の誘いとなり得ます。

「私達は見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」
(Ⅱコリント5の7)ここで言う「見えるもの」とは
人の環境と人の感じる感覚や「実感」であることは明らかです。
私達の使命、役割はただ神のことばを信じることです。
「義人は信仰によって・・生きる」(ローマ1の17)

2009年6月9日火曜日

サタンを糾弾する声

この世界には至る所、諸々の悪がはびこっていますが、
その大元は人ではなく、サタンです。従って先ず、サタンが
糾弾されなければならない、と言うのは極めて当然の道理です。

世間の人々はサタンは架空の生き物であると「言って」おり、
またサタンについて はなはだしく誤解しております。従って
彼らがサタンを正しく糾弾することは当然不可能です。(彼ら
でさえ心からサタンの存在を否定しているとは考えられませんが)

ですから、正しく効果的に
サタンを糾弾する可能性があるのはキリスト者以外には
あり得ません。(しかし今日キリスト者とて、サタンを
「真剣に」糾弾しているか、となるとそれは大いに疑問です。)

*
この世界のことを見ても、
事の始めに、即ち実力行使する前に「悪人」は先ず
冷静な正しい情報に基づいて その悪人の悪を非難する多くの声
によってしっかりと糾弾されなければなりません。

第一に悪の存在に気づき、そして誰かが勇気をもってそれに対して
非難の声を上げ、その糾弾が少しずつ大きくなり、それが極めて大きく
なると、遂にその糾弾の「声」に引っ張り出されて、その悪者が
正体を現わさざるを得なくなるのです。そこまで来ると 
正体を現した「悪人」は破れかぶれになって、
全力で彼の悪の限りを尽くすことでしょう。

しかしハレルヤ!
それは彼が現行犯逮捕される絶好のチャンスとなるのです。
そのようにしてサタンは初めて「偉大なる警察力」によって天から
追放され、のみならず「千年間」拘置、監禁されることになります。
(しかし、その後も話は続きます)

*
今この時代
以上述べた糾弾する役目はおもに、キリスト者にあります。
(神と天使のメインの役割は別にあります。)明らかに神の定めは、
サタンに対する糾弾は私達、多くの「弱き庶民」、神の乳飲み子、みどり児
の口によって行われなければならない、と言うことです。(詩篇8篇)

それは、あのバプテスマのヨハネの場合と似ています。彼は荒野(この世)
で悪に対して叫ぶ「声」でした。(ヨハネ1の23)、声とは目には見えず
実に軽いものです。しかし、霊的な世界においては、声ほど重く強力な
ものはありません。ヨハネの「糾弾する声の総和」がある一定量に
達した時、遂にヘロデが引っ張りだされ、ヘロデはヨハネの首を
切らざるを得なくなってしまったのです。昔も今も
これが「真の殉教」が発生する経過(メカニズム?)なのです。
 
従って、
これは決してヨハネの悲劇などではなく、ヘロデが破滅に至る物語です。
ヘロデは崩壊し、ヨハネは何とキリストを世界に紹介したのです。
これは何たる差異でしょうか。

今のこの時代、
キリストが再びこの世に到来するために必要な唯一のことも全く同様です。
それは、たとえ首を切られようとも、歴代のキリスト者達に続き、私達も、
サタンを糾弾する真理の「声」を、それの総和がある一定量に達するまで、
忍耐強く発し続けること、に他なりません。何故なら総ては、
正しい糾弾から始まるからです。

*
以上の総ての描写は、実のところ私ではなく聖書です。
かように、この世の悪の一掃に関しては、
キリスト者が先ずは真剣に、サタンを知り、サタンを糾弾することが
もしないとするならば「何事も始まらない」ことは明らかです。

従って
私達に、悪とサタンについての神の真理が
明らかに啓示されることは何と必要なことでしょう。

2009年6月7日日曜日

二つの道

何か特別な事態が発生した際、キリスト者がそれに
どう対応するべきでしょうか。
その答えは唯一キリストです。即ち、私達は目前にどんなことが
発生しようと ただ「キリストの中で」対応するだけです。

このことを更に具体的に言うと、私達は、キリストの命、ないしは
死によって対応する、と言えるでしょう。これ以外他の道は決して
ありえません。正にキリストイエスは「道」そのものであられます。

①命によって対応する道:
それは、私達はその事態の中をそのまま進むのですが、しかしその際
内側をキリストの命によって更に満たしていただかなければなりません。
このようなケースはよくあることでしょう。

②もう一つの道は、決して逃げることなく、先ずその事態としっかり対面し、
次にそれに対してキリストと共に死ぬことです。
これも明らかに、神がキリスト者に与えている有効な道です。

神は二千年前、万物(物と者の一切)をキリストの死の瞬間、
キリストの死の中に閉じ込められました。これは神にとって極めて
重要な霊的な事実、御業です。さてそれは霊的な事実ですから、
同時にまた「永遠性」を持っております。

*
所が、そのままでは 
今時空の中に生きる私達には、その永遠の事実は全く無関係です。
しかし感謝します。私達キリスト者はこれも「霊的な機能・信仰」を
用いることが出来るのです。

キリスト者の
「時空と物質に連なる体」の中に存在する人の霊(それは今日「永遠の」
聖霊と一つとなっている)に属する信仰を機能させることによって、
二千年前の永遠の事実を、人の体を経由させることによって、
二千年後のこの時空の中にもたらすことが出来るのです。
これは何という真理でしょう!
これこそがキリストの永遠の死を、私と私の時空に適用する方法です。

キリストはあの十字架の死において、人々によって
「この時空とその中の諸々の者と物」から除かれました。人々は、
除け、除け!と叫んで、彼を十字架つけたのです。(ヨハネ19の15)
それによってイエスは一切の物と者から、永遠の死の効力によって、
遠く遠く除かれ、隔絶されてしまったのです。
これが十字架という第一段の神の御業です。
しかし、必然的にここに神の第二段の御業が続きます。
それはキリストの復活です。
その復活によって、イエスは万物から隔絶されただけでなく、
今度は万物から超越されたのです。

それ故 神はキリストのせっかくの死を、キリスト者達においても
この時空中のいろいろな状況の中で、自分の身に適用することを
願っておられることは明白です。

*
このたびの事態において(直ちに、ではなかったのですが)
神は①の方法ではなく、疑いの余地のないほどハッキリと、私を
②の道へと導かれたのです。①なのか②なのかの判断には、
聖霊の導きは極めて有効です。

①と②のいずれにしろ、聖霊が導かれた結果は明らかな命と平安です。
実はその命と平安が、おとといの下山の旅がとても楽しかった
唯一の理由であった、と言えるでしょう。
このたび 図らずもこのような素晴らしい経験ができたことを
私は神にとても感謝しているのです。

もし出来ることでしたなら、顔と顔をあわせて、その経験の
幾分かについて、あの「匿名」の兄弟(or 姉妹)とも、
ともどもに分かち合えるとするならば、
それは何と嬉しいことでしょう。

*
①と②の適用の相違は、強調点の相違のみです。
双方に死と復活が存在することは明らかです。
神がキリスト者に与えられる総てのこと、
その実質、中身はただキリストの死と復活です。
そしてこの二つと見える道は実のところただ一つの道であり、
それは唯一の神イエスキリスト御自身であります。

☆
これからしばらく下での生活です。

2009年6月4日木曜日

エクレシアに従います

普通一般的に言って、
「文章によって、A さんの主を愛する姿を、B さんが描写
すること」が禁止されなければならない理由はありません。
もしもそうであるならば、あるキリスト者の内面について
他の人が語ったり書いたりすることが一切出来ないことになります。

もとより
人の言葉によって、特に他人の信仰について描写することには当然
大きな限界があります。それにもかかわらず、ある場合それは必要です。
神は過去において、そして今もキリスト者の伝記等において
人の「不完全な記述」を大いに用いて来られました。

何故神はそれを許されるのでしょうか。
それは、人の言葉は不完全ですが、神には聖霊があるからです。
仮にその描写が不正確でつたないとしても、それをキリスト者達が
読むとき、命の中で、真実をそのキリスト者達に伝達するのは結局、
聖霊であるからです。時に聖霊は「それはだめな伝記であるから、
もう読むのはやめなさい」と指摘することもあるでしょう。
いずれにしろ、神は聖霊を完全に信頼できるのです。
(多少不正確な訳の聖書であっても聖霊は、真に求める
キリスト者に真理を正確に伝達できるのです。)

☆
とは言えその際、重要で大きな前提として、
主の前において「B さんの心根が正しくなければならない」
事は明らかです。(文章表現力などよりも)実は、問題の
総てはこの一点にあるのです。

もしもB さんの心が曲がっているのであれば、その文章が
たとえそつが無くスマートなものであったとしても、
その描写に触れる兄弟姉妹(エクレシア)は、直ちに
ある種の不快感を覚えることでしょう。即ちエクレシアは 
B さんの傲慢さ、不真実さ、人を利用しようとする隠れた意図、
自分を高くしたい心、自分に栄光を帰したい霊を容易に
感じ取るでしょう。当然その場合、B さんは直ちにエクレシアが
受けた感覚を受け入れ、彼の企てを停止しなければなりません。

☆
仮に私が、もしもそのB さんであるならば、
喜んでエクレシアの感覚に服したいと思います。
なぜなら、エクレシアは、キリストの体であり、
今日何と、キリストの思いを地上において反映する
ことが出来るからです。

その場合、私がエクレシアの頭・キリストに服するのは
当然のことであり、全く何の問題も未練もありません。

もしも私がそうであるのならば、
主がエクレシアの兄弟姉妹に、それを明確に感じさせて
下さるように、そして多くの兄弟姉妹が、私にそれを伝えて
下さるようにと、心から願っております。それは、私が主
御自身に反逆すると言う大きな罪を犯すことがないためです。

(私がそんなに清い人間でないことは当然であり、
あなたの心からの交わりを充分受け入れることが可能です。
ですから兄弟姉妹よ、よき交わりの為、匿名でない方が
よろしいのではないでしょうか。)

*
柄沢兄弟についての私の文章は
実際に兄弟に接しておられた「柄沢家」に属する方の
口頭による描写を基としたものです。
しかし、私の文章表現についての一切の責任は
私自身にあるのは当然のことです。

*5日、10:30am
今から、山を下ります。きっと、
主に祈りながらの楽しい六時間となる事でしょう。

罪の言い表しについて

・・・
或いは兄弟は、神に対して、まだある罪をまだ告白していない
が為に、良心に安息がないのかも知れません。
「柄沢家」の聖徒達は、
多分これから「肉体の暗闇」の中に突入して行かなければならない
であろう登さんに、その体はたとえ弱いとしても、キリストの御血
の完全な洗いにあずかり、清くとがめのない強い良心を
持って欲しかったのです。

☆
「もし、神が光の中におられるように、私達も光の中を歩んで
いるなら、私達は互いに交わりを持ち、御子イエスの血は総ての
罪から私達を清めます。・・・
もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、総ての悪から私達を清めて下さいます。」
(Ⅰヨハネ1の6、9)

原則として
罪の言い表しは、神に対してです。それを必ず人の前で行わなければ
ならない、と言うことはありません。罪の自覚があるもので、
まだ神に対して言い表されていない罪があるならば、
それを神に対して言い表せばよいのです。

2009年6月2日火曜日

神に会う備え

*柄沢登兄弟の家で(5)*

ある日、柄沢良子姉妹の心にフトある思いが生れました。
それは、私はキリスト者として今この兄弟の為に何をしてあげるのが
神の御前において最善なのであろうか、と言う思いでした。
それが発端となり、遂に柄沢兄弟の献身が現実のものとなったのです。
ここにおいて、登兄弟の総て、生も死も、一切は神に献げられたのです。
これはどうしても、今しておかなければならない「神に会う備え」です。

神に会う備え:
それは明らかに、何にもまして総ての人が一日も早く実行しなければ
ならない最重要課題です。所が、多くの場合私達はその大切な宿題を
どこかの引き出しにしまったまま にしているのではないでしょうか。

しかし、
キリストの真の救いを経験したばかりの登兄弟と共に
日々一緒に生活しておられた妻良子さんと、また他の
「柄沢家の」人々にとって、それは日ごとに現実味を
帯びて来る重い課題となって行ったのです。
実際の所、もう一日の猶予もないのかも知れません。
姉妹達は必死の思いで、主の前に出たのです。

そのようにして、遂に「その家のキリスト者達」はあたかも一人の人
のようになり、通常の世の人情を超えて、或いは今日のキリスト者達の
常識をさえ超えて、愛する兄弟の「永遠の福祉」の為に、
黄泉の勢力の前に立ちはだかった、と言ってもよいでしょう。

それはあたかも、
なりふりかまわずに、家の屋根まではがし、
必死の思いで、病人(彼らの兄弟)を寝床のまま、
イエスの眼前につり下ろした人々のようでした。

*
そこで実行されたのが
「まだ言い表わされていない罪」の告白です。或いは兄弟は、神に対して、
ある罪をまだ告白していないが為に、良心に安息がないのかも知れません。
たとえ今それがあるとしても、その状態のまま、キリスト者が
ウソつきサタンによって巧みに攻撃されるならば、
いつ信仰の土台さえくずれてしまうか分からないのです。

「柄沢家」の聖徒達は、
多分これから「肉体の暗闇」の中に突入して行かなければ
ならないであろう登さんに、その体はたとえ弱いとしても、
キリストの御血の完全な洗いにあずかり、
清くとがめのない強い良心を持って欲しかったのです。

そこで、先ず取り扱われたのが、夫婦間の問題でした。
今私がその詳細をここに書く必要はないでしょう。いずれにしろ、
御夫妻は、自分の「私は悪くない」を全面的に放棄し、
何と完全な赦し合いに至ったと言うのです。
それは、主の臨在が深く感じられる、ただ
「涙、なみだのひと時」となったのす。

また後日、
登兄弟から、かつてひどい屈辱を受け、今までどうしても赦す事の
出来なかった職場のある人物についての言い表しがなされた、と言います。
そのようにして、兄弟は一点一点、力あるキリストの御血の清めを経験し、
兄弟の良心と霊は徐々に強められて行ったのです。

そして更に神は、
それらの出来事を「彼の自我」を少しずつ砕いて行くと言う
機会とさえされて行ったのではないでしょうか。
そのようにして、それらの神によって極めて圧縮された
登兄弟の生活は、その価値を日一日と高めて行ったのです。

2009年6月1日月曜日

柄沢登兄弟の信仰

・・・
「今の時代においては」神は御自分の権利を
人にごり押しされることはありません。それは他でもない、
神が人に与えた「自由意志」の故です。

しかしながら、
もし人が、その神の愛と正しさに自ら気づき、  
「私は御子の尊い御血をもって買われたのだから、
私の総ては神の手に委ねるのは当然です」と
主イエスの愛に迫られつつ、
喜んで、自分の総てを神に献げるのであるならば、
神はその人を、真に御自分の手の中の器として
取り扱い始められるのです。

上記の場合、とても素晴らしいのは、
その人は「自分に与えられた自由意志」を正しく用い、
冷静に自分の意志で、神の意志を選び取ったことです。
何故ならそれこそが、神とサタンの前において人がなすべき
最も重要な事であるとさえ言えるからです。

環境と感覚に打ち克ち、自分の意志で自ら、神の意志を
冷静に選び取ること、それこそが
信仰の本質であり、人の役割、使命です。

*
何とあの病の苦しみの中、ある日ある時、
正に登兄弟はそれをされたと言うのです。

先ず彼は、妻である姉妹から
「献身に関する神の意志」について聞きました。
その時、彼はどうしたのでしょう。
彼は、彼のひどい環境や感覚を ひとまずかたわらに置き、
「その神の言葉・真理」を見つめました。
そして直ちに(これが大切)
「私の体を主に献げます」と口の言葉を用いて、
即ち信仰を機能させることによって、
その真理そのもの(それは主御自身・命の木の実)を
彼の中に取り入れたのです、言い換えれば、信仰によって
真理、神の意志を兄弟自身へと結合させたのです。
(信仰の最も深い意味は「結合」です。信仰には
その様な驚くべき働きがあるのです。)

更にその時兄弟は、間髪をいれずに、
彼にささやきかける「神の意志と矛盾する様々な感覚的邪念」を
断固拒絶したことにもなるのです。

*
さて今
その時の登兄弟の態度と創世記3章のエバの態度
とを比較して見て下さい。
人はもしヘビ(だます者の意)との
会話に引き込まれたら、ただそれだけで必ず負けます。
その会話のきっかけは「本当に・・?」と言う敵の質問でした。
ヘビがもしその問いかけによって人を釣り上げることが出来る
ならば、あとはやすやすと「理屈と感覚の世界」に人を
連れ込むことが出来ます。理屈と感覚の世界において、
人が「だます者」に勝つのは殆ど不可能です。

しかし、
柄沢兄弟はそうではありませんでした。
その時の「兄弟の態度」は同時に
「彼の霊の姿」でもあったのです。
その肉体の極限的弱さにもかかわらず、
彼の霊は大そう強かったと言えましょう。
どうしてその様なことがあり得たのでしょう。
主に感謝、賛美をささげます、
それは正にあの助け主、聖霊の働きでも
あったからです。

*
「あなた方の手足を、不義の器として罪にささげては
いけません。むしろ、死者の中から生かされた者として
あなた方自身とその手足を、義の器として神に献げなさい。」
(ローマ6の13)