2009年7月22日水曜日

愛は分割されてはならない

神はキリスト者達が完全に「ご自身のみを」愛することを要求
されます。主は信者の心が「ご自身と誰か」、或いは「ご自身と
何か」に分割されることに決して寛大ではありません。たとえ信者の
愛の大部分が主に対するものであったとしても、それでも主は
喜ばれないのです。

主は私達が自分の愛する者や物を、完全に手放すように求めて
おられます。神の要求は正に絶対的です。神はご自身の子供達の
愛情を、他の人やものが獲得することを少しも許すことが出来ません。

更に主は 私が「私流のやり方で」主を愛そうとすることを
願われません。神は私達が「神ご自身に従って」ただ神を愛すること
のみを願われます。こと愛については、主は私達が絶対的であることを
願われます。神はあなたの愛を独占したいのです!
主は本当に「ねたむ神」です。(出エジプト20の5)

非常に残念なことに、あるキリスト者達は「彼らが愛するものを
自由に愛し、また同時に主を愛することが出来る」と思っています。
彼らは、自分の愛するものを愛するのなら、同時に主を愛することは
不可能であると言う事実をまだ認識しておりません。


しかしながら、もしも私達の愛が決して分割されることなく、
完全にただ主にのみ献げられるのであれば、その時、信者の魂の命、即ち
「全く自分本位であった魂の命」はある決定的な致命傷を受けるのです。

「私はあなたの他に誰を天に持ちえよう。
地にはあなたのほかに慕うものはない」(詩篇73の25)

私達も神に向かい、この詩篇記者アサフのように高らかに言うべき
ではないでしょうか。「地にはあなたの他に慕うものはない!」
その時、私達は何と素晴らしい命の享受と解放を経験することでしょう。

「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。
これが大切な第一の戒めです。」(マタイ22の37、38)


☆      ☆
「もしも私達の愛が決して分割されることなく完全に ただ主にのみ
献げられるのであれば、その時、信者の魂の命、即ち全く自分本位
であった魂の命はある決定的な致命傷を受けるのです。」

それは何故でしょう。それはキリストの十字架に連結された
「あなたの十字架」には「生来のもの」に死をもたらす天的永遠的
神の力があるからです。その十字架の力があればこそ、初めて私達が
「神をのみ愛する」という可能性が生ずるのです。

しかしそのためにはあなたに対し、
ヨルダン川の死の水の中へと踏み入れる、
実際的な「小さな」一歩が要求されなければなりません。
なぜなら神は、一度人に与えられた自由意志を
とても尊重されるからです。
神にはあなたの信仰という
「協力」がどうしても必要なのです。

どうかあなたが、あなたに迫らずにはおられない
神の切実な愛の要求を 真に受け入れて下さいますように。

2 件のコメント:

鷲のように翼を張って さんのコメント...

その通りです。信仰には”勇気”がいります。ある時点で、”そうですそのようにいたします”と、主の前で告白をしなければなりません。はっきりと。「神の国を第一にもとめるならば、全てのものは与えられる」と約束されているですから、その主に信頼し、自分の執着のいっさいを手放します。「信じることができなかったのは、罪を悔い改めなかったからです」という御言葉があります。信仰のはじまりは、罪を悔い改めることからはじまります。そうすると、自然に自分中心の信仰から、キリスト中心の信仰のなかに移されていることが分かります。絶えず、悔い改め、たえずキリストのなかに安息できるように訓練が必要です。でも、これがなかなが楽しい。主が与えようとしておられるものが見え始めてくるからです。

Mr.Sugar さんのコメント...

キリスト中心、アーメンです。

私中心から 神中心へ、

ですね。