この道は一つの原則があるだけであり、自己のための余地は
残されていません。神の御こころからの少しの逸脱でさえ、
私達をこの道から運び去るでしょう。
魂の命が消滅させられ、自分の習慣、好み、願望、切望が
一つ一つ砕かれ、もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる時、
その時必然的に、私はそれを 困難な道であるとは感じないでしょう。
残念ながら、多くの信者達は門にも入っておらず、この道を
歩いてさえいません。またある人は忍耐がなく、甘美な地点に
到達する前にこの道から離れてしまいます。
*
今朝 以上の言葉に対する
「あなたの真摯な文章」をもう一度 読み返しました。
「習慣、好み、願望、切望が一つ一つ砕かれ、
もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる。」
これは決して ヨハネの書簡で言う「罪なき完全」のことでは
ありません。「罪なき完全」は当然あり得ません。それは偽りです。
しかしここで言われているのは
「ある段階に到達した信者達」の堅実な様の描写です。
このような信者はあり得ないのでしょうか。
イエイエそんなことはありません。
私達はあの多くの証人に
雲のように取り囲まれているではありませんか。
(ヘブル12の1)
今日のキリスト者にはある種の 根拠のない「あきらめ」がある
ように思います。(それも敵の企てではないのですか)
ですから、「間違った霊性」が信ぜられ宣伝される可能性があり、
また「習慣、好み、願望、切望」は神が許しているからいいのだ、
神はこの世のお父さん以上に、度量のとても広いお方ではないのか、
と自らを慰めるキリスト者も多いのです。
ここで言う「習慣、好み、願望、切望」は、
神に隠れた所で求める、神から独立した、
「私の世界」の中の、
私一人の為の、私のための
「習慣、好み、願望、切望」と言う意味に限定されます。
もしもそうであるのなら、
私個人に対する「神のねたむ愛」は それらの一つたりとも
ただの一分間さえ許すことは出来ないはずです。
例外的にその点においてだけは
神の度量も極めて小さいのです。
その「死と黄泉のような愛」の故に、
「私」のための「習慣、好み、願望、切望」が
真に私の深刻な悩みとなり、
次にそれらの一つ一つが丁寧に
私の心からの祈りの中で
キリストの死に重ね合わされる時、
キリストの十字架の霊的な死の力は
私の十字架へと 時空を超えて確実に伝達されます。
その後 ある時に至り、
確かな天の「殺す力」が
私にさえ フトありありと
確認されるに至るでしょう。
☆ ☆
多分、私の分を超えたであろう
このような発言を
どうぞお許しくださいますように。
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