*平静な感情の必要*
前回までに述べた事実から
霊に従って歩もうとするキリスト者にとって、最大の「敵」は感情
であると言っても言い過ぎではないでしょう。(もちろんここで言う
感情とは、感情の総てではなく、感情の命、感情を動かすエネルギー
のことです。以下、全部この意味で用います。)
キリスト者であるならば、肉ではなく、霊に従って生活しなければ
ならないのは当然です。しかし、霊に従って歩くためには、生活の
あらゆる時点で、キリスト者は内側の霊の導きに十分
注意していなければなりません。
霊からの「感覚」は極めて優しく、細やかで、繊細です。
ですから信者が注意深く「霊に語る聖霊の声」(直覚に)を
待ち望まない限り、彼が決して霊の導きを受けることはあり得ません。
従って、霊に従って歩くには「感情が完全に静まっている」必要がある
のです。霊の小さく繊細な感覚が、私達によって殆ど無視されがちなのは
私達の感情が、まるで押し寄せる大波のように大きな音を立てている
からです。そのような時、私達が、静かな霊の声に気づくのはとても
難しいことです。本来私達キリスト者は、霊の感覚を十分感じる取る
ことが出来る能力を持っているのですが、別の感覚が絶えず大声を
出して騒いでいるならば、霊の声を識別することが
全く出来なくなってしまうのです。
しかしながら誰であれ「感情を静寂に保つことが出来る」キリスト者
であるならば、直覚の声を察知するのはそんなに困難なことではない
ことを知るでしょう。
*
さて、感情の起伏は、信者をして決して霊に従って歩ませないだけでなく、
直接肉に従って歩かせてしまいます。
キリスト者であっても、霊に従って歩いていない時には、自然に肉に
従って歩くことになります。第三の状態はあり得ません。ですからもし
霊の導きを得ることが出来ないなら、自然に彼は感情の衝動や浮沈に
従って歩くのです。
よく霊に従って歩んでいるキリスト者であってとしても、霊の導きに
従っていない場合には、直ちに感情が彼を導くことを始めます。
そのような時、信者は自然に、感情を霊の導きのようにしてしまい、
魂の衝動を霊の感動のように誤解するのです。
*
Sugar 私見:
ここで言う内的な聖霊の声とは
人の内的な一機能である「人の霊」の中におられる聖霊の声です。
それは決して、人の魂や体に対し、超自然的に直接何かを感じさせる
「神ならぬ霊」の声ではありません。これの識別は極めて重要です。
さて、先人によると
「魂の感覚」よりも更に深いところから語られる繊細な声
を感知するには、
・感情を完全に平静に保つ
・聖霊の語りかけに大いに注意を払う
・その語りかけを待つ
ことは不可欠のようです。
とは言われても、私達としては「それでは、その感情を平静に
保つにはどうすればいいのですか」と聞きたくなりますよね。
6 件のコメント:
一連の記事を読ませていただいて感じたことは、霊、魂、感情などのことはキリスト者として気にしないのは正しくないのですが、気にしすぎると大変だなということです。
「感情を平静に保とうとする」とそれが執着にもなるでしょうから。
どこか禅問答にでもなりそうな観念系の話しになる恐れもあります。
キリストと共に十字架で死んだことに尽きるという結論は、もちろん正当ですが。このような回答だと、どこか「間」を飛ばしているような説明であるという印象を受けるのです。
コージ兄弟、
率直なコメント感謝です。
言われる通りです。
気にしすぎるのはほんとによくありません。
今後、先人さんはどう話をもって行かれる
のでしょうか。
ホンとに実際のクリスチャン生活に
役にたつのでなければ、禅問答になって
しまってはあまり意味はないです。
紹介する私も気をつけます。
この数回、同じ話題に留まり過ぎたのかも
知れません。今後の展開に期待したいと
思っているのですが・・
まあ、極私的には「何気に」とか「ふと」がキーワードかと。私は無心にスイミングしているときによく主の言葉を受けますね。つまり自分から離れている時です。逆に自分の内面を掘っても何も出てきません。
アーメンです。多分 私も同じです。
光によって照らされるのではなく、
単なる自己分析は確かに危険でしょう。
シュガーさん
文章だけだと「つっけんどん」な印象を与えてしまったかもしれませんが、このシリーズを今後も楽しみにしています。今の、自分の理解力では腑に落ちていないからもどかしいのです。けれども、正直な気持ちをコメントしました。
お二人のコメントから「客観的」な状態がポイントだと教えられました。
「客観君」を目指します。
コージ兄弟
理解して頂いて有難う。
本当にそうです。
人の主張がどうであれ、
一人一人 真実に聖霊に従うだけ
なのでしょう。
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