キリスト教の世界において今日強く求められているものは
よき働き人であり、更にその伝道者に「多くの人々を引き付ける力」
があるかどうか、と言うことではないでしょうか。
この時代において、もしも彼に様々な手段を駆使して人々を
引き付ける能力があるならば、要するに人々から見てその伝道者が
魅力的ならば、彼は有力な働き人なのであり、きっとその働きは
成功するだろうと見るのです。逆に人々を引き付ける力に欠ける
のであれば、働き人としては不適格であり、その成功はまるで
おぼつかない、とされるのです。
しかしながら、もしも以上のような「キリスト者の働き」についての
評価が正しいとされるならば、そこには「根本的に大切な何か」が
完全に欠落しているのではないでしょうか。そもそもキリスト者の
働きとはそのようなものなのでしょうか。例えば私達が使徒行伝
などを読む時、その様なものを高く評価するヒントの
一かけらでさえ見出すことが出来るのでしょうか。
「昨日の」使徒の意図は、「総て魂に属するものをことごとく
覆ってしまうこと」でした。何と「天然に属するもの」は総て
死の十字架に付けられなければならない、それがあの使徒の
明確な主張だったのです。
それでは「根本的に大切な何か」とは一体なんでしょう。それは
彼の腹から、聖霊と一つになった純粋な清い霊が流れ出ているかどうか
と言うことであり、彼の人間的魅力や能力などではありません。
そのような多くの人々を吸引する人の魅力が聖霊の働きを助ける
ことなど決してあり得ません。従って逆に、ある兄弟がたとえ、人を
引き付け、人を沢山集める能力に欠けているとしても、それで
彼が霊の働きを妨げてしまう理由には決してならないのです。
いずれにしろ、働き人が実際的に日々自分の魂の命を否み、真に
「霊に従って」歩まないのであれば その働きの結果は総てむなしい
ものであり、神がそれを評価することなど全くあり得ません。
0 件のコメント:
コメントを投稿