2009年7月19日日曜日

伝道者の魅力

キリスト教の世界において今日強く求められているものは
よき働き人であり、更にその伝道者に「多くの人々を引き付ける力」
があるかどうか、と言うことではないでしょうか。

この時代において、もしも彼に様々な手段を駆使して人々を
引き付ける能力があるならば、要するに人々から見てその伝道者が
魅力的ならば、彼は有力な働き人なのであり、きっとその働きは
成功するだろうと見るのです。逆に人々を引き付ける力に欠ける
のであれば、働き人としては不適格であり、その成功はまるで
おぼつかない、とされるのです。

しかしながら、もしも以上のような「キリスト者の働き」についての
評価が正しいとされるならば、そこには「根本的に大切な何か」が
完全に欠落しているのではないでしょうか。そもそもキリスト者の
働きとはそのようなものなのでしょうか。例えば私達が使徒行伝
などを読む時、その様なものを高く評価するヒントの
一かけらでさえ見出すことが出来るのでしょうか。

「昨日の」使徒の意図は、「総て魂に属するものをことごとく
覆ってしまうこと」でした。何と「天然に属するもの」は総て
死の十字架に付けられなければならない、それがあの使徒の
明確な主張だったのです。

それでは「根本的に大切な何か」とは一体なんでしょう。それは
彼の腹から、聖霊と一つになった純粋な清い霊が流れ出ているかどうか
と言うことであり、彼の人間的魅力や能力などではありません。
そのような多くの人々を吸引する人の魅力が聖霊の働きを助ける
ことなど決してあり得ません。従って逆に、ある兄弟がたとえ、人を
引き付け、人を沢山集める能力に欠けているとしても、それで
彼が霊の働きを妨げてしまう理由には決してならないのです。

いずれにしろ、働き人が実際的に日々自分の魂の命を否み、真に
「霊に従って」歩まないのであれば その働きの結果は総てむなしい
ものであり、神がそれを評価することなど全くあり得ません。

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