前回の「人々を引き付ける力」が要求される働き人達が、
真実をこめて求めるべき「本来のターゲット」とは一体何でしょう。
それは他ならぬ「霊的な力」です。彼らは自己の能力を発展させて
魅力的な伝道者になろうなどとするのではなく、単一に
キリストにある真の「霊の力」を求めるべきです。
しかしながら、真の霊の力は、ただそれを強く願うだけで与えられる
ものではありません。それには実際的に「代価が支払われること」
が強く要求されるのです。
今それを簡略に言うとするならば以下のようになるでしょう。
もしも私達が 本当に自分の感情に対して死んでいるならば、結果として
私達はごく自然に「霊の力」を持つのです。私達が霊の力に欠けるのは、
余りにも多く自分の感情に従って生活しているからです。そして、
私達には あまりにも欲望、自分の好み、感覚が多いからです。
もしも私達が 確かに自分の感情に従って歩まないのなら、また総ての
ことで「自分自身を喜ばせる欲望と行為」を死に渡すなら、私達は
とても自然にキリストの命における力と能力とを見るでしょう。
それはキリストの十字架のより深い死が、十分私達を霊的な力で満たす
ことが出来るからです。これ以外に道はありません。十字架が私達の
欲望を対処し、私達を神のために生きさせる時、霊の力は私達から
静かに現わされるでしょう。
もしも信者が霊的な働きにおいて、「自分の感情に打ち勝つ」
(キリストの死の適用によって)のでなければ 感情は多くの方法で
私達の前進を明確に阻むでしょう。感情が影響を及ぼす限りにおいて、
信者の霊は感情を支配することは不可能です。
従ってその人が「神の最高のみこころ」を成就することは出来ません。
感情はあらゆる種類のものを用いて、彼の働きの前進を妨げるからです。
☆ ☆
私のような者に、上記のような物言いは
なかなか出来るものではありません。
「彼」はその奉仕の生涯において極めて過酷な代価を払い続けて
来たと言えるでしょう。しかしながら、主によって彼の自我が
奪い取られ、彼の中の旧創造を総て献げ尽くしたその墓の向こうにおいて、
彼が真に経験した、卓越した「霊の命の完全さ」と「御国の実際」
を思うとき、彼は人の払うべき「ほんの小さな代価」について
どうしても私達に語らざるを得なかったのではないでしょうか。
*
以上で「感情」についての総論はひとまず終りです。
次回はその各論として、先ず「愛情」です。
そこでは、更に詳細に述べられる「代価」への言及は
どうしても避けられないことでしょう。
2 件のコメント:
彼はその奉仕の生涯において極めて過酷な代価を払い続けて来られたと言えるでしょうか。しかしながら、主によって彼の自我が奪い取られ、彼の中の旧創造を総て奉げ尽くした墓の向こうにおいて・・・・・
彼はどうしても人の払うべき「ほんの小さな代価」について私たちにかたらさるを得なかったのではないでしょうか。」
ものすごく深い、霊に響く言葉を語られた気がします。本当は一番にしなければならないことが後回しになってしまいそうでした。その一番のことは実に肉的にはいやなことなのです。地味な奉仕です。でも、主がそれを望まれるなら、喜んで従いたいのです。もしそれが本当に主の御心ならば、その従う道々において、御言葉をもって励まし、満たし、導かれることでしょう。そして、それが確かに主からものもであたことを確信するでしょう。私は主と共にそういう道を歩みたいと思っています。感謝します。
彼の若き日に
明確に真実を見た、
その結果が
彼の生涯であったのだと思います。
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