2009年7月29日水曜日

「神にあって」、「神のために」

ところが、
キリスト者が神の剥奪により「自分の愛するもの達」を失ったように見えた
としても、もしもそこに、キリストの死が真に介入していなかった
のであれば、それらはこの世にある「艱難辛苦の物語」と何らの相違も
ありません。従ってそこに神の霊的効力を期待することは出来ないのです。

また、自分の自由意志によって、自ら「自分に親しいもの」を捨て去った
としても、もしそこに、彼の信仰の機能が働き、キリストの死の効力が
「彼の十字架」に伝達されていなかったのであれば、
そこに霊的力を期待することは全く不可能です。

しかし、彼がそれらの一つ一つの経験において、真に「自分の十字架」を
負い、深い死の水の中を通る経験をしたのであれば・・

☆      ☆

彼はいずれある日 自分の心が、他の人を愛することにおいて、
どれ程 純粋であるかに気づくことになります。
その時には既に、彼の愛の中に「自分からのもの」は混入されていません。
彼の心の総ては神のためであり、彼の一切は神の中にあります。

過去において、確かに彼は他の人を愛しましたが、自分自身を他の人よりも
多く愛し、自分自身を他の人よりも重要なものと見なしました。しかし今、
彼は他の人と喜びや悲しみを分かち合い、愛をもって、他の人の重荷を担い
仕えることが出来ます。今彼は 自分が愛したい者を「自由に」愛する
というのではなく、「神が彼に愛して欲しい人」を「神の中で」愛するのです。

彼は他の人を自分自身よりも多く愛すると言うのではありません。
彼は他の人を自分自身のように愛するのです。
彼は自分自身を「神にあって」、「神のために」愛するので、
他の人をも「神にあって」、「神のために」愛するのです。
ですから、彼は他の人を自分自身のように愛することが出来るのです。


人の愛情とは何と取り扱いにくいものでしょう。もしも敢えて私達が
愛情において「神の御こころのもとに服する」のでなければ、いつでも
私達の愛情は「霊の命を損なってしまう」危険性があります。
間違った思想を正すことは比較的容易です。
しかし、間違った愛情を正すのは容易なことではありません。

キリスト者が神に「自分の愛情を管理していただく」ことは、
私達の霊の成長に不可欠なものであることを知らなければなりません。
私達は心を尽くして主を愛し、また主に私達の愛を
「支配していただく」必要があるのです。

☆     ☆

これまではおおよそ、キリスト者が他人をどう愛するか、
と言う問題を取り扱ったものでした。次回からは
キリスト者が神をどう愛するか、と言うテーマに入って行きます。
私達は自分は神を愛していると思っています。彼によれば、しかしながら
そこには極めて容易ならざる問題が含まれているようです。

0 件のコメント: